芥川賞作家の川上弘美さんは、中高時代には文章の上手な同級生たちに憧れていて、自分が作家になるとは夢にも思っていなかったといいます。大学卒業後に私立中高一貫校の生物科の教員になり、専業主婦を経て、商業作家としてデビューした経歴を振り返って、中高時代の経験が長い人生でどのように“熟成”していくのか伺いました。
TOPIC-1
得意なことはないが、好きなことはあるオタクな中高生時代
雙葉には中学受験ではなく、小学5年生からの編入だったそうですね。
川上 公立小学校に通っていたのですが、4月1日生まれで、同級生の中で一番成長が遅かったこともあり、軽いいじめに遭いました。それを心配した母の配慮で、数名しか募集していない雙葉小学校の編入試験を受けたのです。4教科の試験があったため、近所の私塾に通ったのですが、やや登校拒否気味だったこともあり、その塾を自分の居場所のように感じていました。
どのような中高時代を過ごされたのですか。
川上 のんきに楽しく過ごしてはいたのですが、これといって得意なことがない中高時代だったと思います。必修クラブはもちろん、同好会などにも参加していましたが、とくに部活に打ち込んだわけでもありません。ただ、管理的な学校ではなく、落第するような成績さえ取らなければ、自分の責任において自由な活動が許されていたのはラッキーだったと思います。
何か熱中したことはありましたか。
川上 今になって思えば、サブカルチャーが好きなオタクな中高生だったと思います。自分たちで撮った写真をスライドにして弁士付きのスライド映画を作ったり、同級生とフォークデュオを組んでオリジナルソングを作ったり、ガールズバンドを組んでイベントに出かけていっては演奏活動をしたりしていました。オフコースの熱烈なファンで、まだ人気が出る前からラジオの公開放送には行けるかぎり通っていましたし、コンサートにも必ず行っていました。もちろんファンクラブにも入っていました。
TOPIC-2
中高時代に一度だけ書いた小説は修学旅行の感想文
将来、小説家になるような萌芽は、中高時代にあったのでしょうか。
川上 まったくありませんでした。小学生の頃から読書は好きで、通学時も必ず本を読んでいたのですが、自分が書けるとは思っていませんでした。当時から雑誌などに詩を投稿して採用されるなど、文学が好きな人たちのグループが同人誌を出していたのですが、いつも遠くから眺めながら、憧れていました。
自分で何か書いてみようとはしなかったのですか。
川上 深夜放送に投書して読まれることはよくあったのですが、小説はなかなか書けませんでした。でも、一度だけ小説を書いたことがあるんです。当時の雙葉高校の修学旅行は京都・奈良で、1週間びっしりお寺を巡り感想文を書くことになっていたのですが、感想文を書くの嫌さに代わりに小説を書いたのです。秋篠寺にある技芸天という仏像が好きだったので、その仏像が何度か作り直されているという史実から想像を膨らませ、技芸天を作り直した仏師三代の話を。ところが先生は、私とは名指ししないものの、みんなの前で「小説を書いて来た生徒がいて、これがまたつまらなくてねえ」と。心が折れ、何年か立ち直れませんでした(笑)。
先生に見る目がなかったのでしょうか。
川上 いえ、実際つまらない小説でした。もしうまく書けていたら、今ごろ時代小説家になれていたかもしれない(笑)。雙葉では、その年度に提出された中1から高3までの様々な作文や文芸作品などの中から優秀なものを選び、毎年「ふたば」という文集にして発行しているのですが、私は6年間で一度も掲載されませんでした。時折読み返すことがありますが、明らかに私より上手な文章ばかりで、「私が小説家をやっていて良いのだろうか」と、今でも思ってしまう……。