TOPIC-5
日常につきまとう「違和感」が創作活動の原動力に
作家としてスタートを切るのは、専業主婦時代ですね。
川上 育児をするうちに、どうしてもまた小説を書きたくなり、まだ二人の息子たちが幼児のころ、走りまわる二人の隙を見ながら短い小説を再び書き始めました。応募した作品が「パスカル短篇文学賞」を受賞し、商業的な作家としてデビューしたのは35歳のとき。それほど早い方ではありません。でも、ただ本が好きで小説を書きたいというだけでは、おそらく小説は書けなかったでしょう。私が小説家になるためには、落ちこぼれ学生からアルバイト生活に突入し、学校教員を経て専業主婦となり、子育てをするといった、これまでの人生すべてが必要だったのだと考えています。
小説を書く原動力は何でしょうか。
川上 ここは自分の居場所ではないという「違和感」のようなもの、という言い方がいちばんぴったりするような気がします。どこかに自分の場所があると思っているわけではありませんが、何をしていても、どこに属していても、何かしっくりしないような感覚が常にあります。それは小さな頃から感じていました。たぶん、物事を絶対的には信じることができないのでしょう。しかし、そうした「違和感」を生かせる職業が小説家だと思っています。
今後の方向性や将来の抱負のようなものはありますか。
川上 これ、と明言できるものはありません。人間は時々刻々と変化していきます。そのときの年齢や生活環境、社会状況の中にいる自分が、そのときどきに感じる「違和感」の中からこそ、言葉が生まれてくると思うのです。書き始めてみて、「あっ、これが書きたかったのか」と分かるといったような。私の小説には、だめなところがたくさんある人間がたくさん出てきます。そうしただめな人間の生き方を通して、読んだ方がほっとしたり、またある時は反発してその結果何かを考えてくださったりするのが、小説家としての幸福です。
TOPIC-6
1日5分でもいい「有意義なことを考えない時間」を作ってほしい
新しく中学1年になる子どもたちにメッセージをいただけますか。
川上 今の若いひとたちは、小さな頃から、将来のことを具体的に考えて、日々の行動を計画的に進めていくように教えられています。やるべきことが具体的にありすぎて、それに抑圧されているのではないかと心配になります。ですから、1日に5分とか10分は、何もしないでぼんやりする時間を、無理にでも作ってほしいと思います。テレビやスマホ、パソコンから離れ、何も有意義なことを考えず、ただボーッとするのです。私自身は貧乏性で、今もただボーッとするのは不得意なんですが、小説を書くには、そうした時間は欠かせません。何も考えないというのは、実はけっこう苦しいのです。でも、そういう時間を作ることができれば、人生が少しは変わるかもしれません。
保護者の方へのアドバイスはありますか。
川上 わが子の高校の進学相談会で、学校の先生に言われた言葉を贈りたいと思います。「保護者の皆さん、つたないながらも自分で進んでゆこうとしているお子さんに、干渉しすぎないでください。万一干渉したくなった時には、どうかペットを飼ってください」。子どもを思うあまり過干渉になるのが、親というもの。でも、必要なときに必要なだけ手を差し伸べるだけで、あとは見守るということがほんとうは大切なんです。自分自身がそのようにできなかった反省もこめて、この言葉を選んでみました。
川上弘美(かわかみ・ひろみ)さん
1958年東京生まれ。雙葉中学・高等学校からお茶の水女子大学理学部生物学科に進学。卒業後、1982〜86年まで田園調布雙葉中学・高等学校の生物科教員として勤務。結婚して専業主婦となって小説家デビュー。1996年「蛇を踏む」で第115回芥川賞を受賞。「溺レる」「センセイの鞄」「真鶴」「水声」「七夜物語」など、次々と話題作を発表。映画やテレビドラマの原作にもなる。2019年紫綬褒章を受賞。