TOPIC-3
考古学者を志望するも大学闘争で夢は潰える
大学ではどんなことに打ち込んだのですか。
上野 当時は、大学闘争真っ最中の時代です。入学した年の秋に、羽田闘争で京大文学部の同期生だった山崎博昭君が亡くなりました。その追悼デモが、私のデモデビューとなり、以後は、授業にもあまり出ず、デモに明け暮れる毎日でした。結局、大学闘争はあっけなく終わり、敗北体験だけが残るのですが、あの時代をあの場所で過ごしたということは、私の人生にとって決定的なことだったと思います。
どんな学問に興味があったのですか。
上野 大学に入る前までは、考古学者になりたいと思っていました。ただし、今振り返ると、これも父親への反発からだったと思います。父親は2人の息子には実学以外の道を許さず、彼らも父の言う通りに医学系に進みましたが、娘の私には何の期待もしていませんでした。そのため「世間の役に立たない生き方をしたい」と思うようになっていたのだと思います。
役に立たない学問が考古学だったのですね。
上野 中学生の頃から図書館に入り浸り、古代の本を読みふけっていたこともあり、漠然とエジプトやシリアなどに興味がありました。高校時代から知的関心が高く「思想の科学」などの雑誌を読み、京都大学人文科学研究所に憧れていました。ですから、どんなに大変なことかということを少しも考えず、できれば京大人文研で「西域交流史」などを研究できたらどんなに楽しいだろうと夢想していました。ところが、大学闘争は、学問の権威を否定する運動でもあり、大学闘争の過程で、人文系の学問への憧れは潰えてしまいました。
TOPIC-4
モラトリアムで大学院に進学
大学院に進学したのはなぜですか。
上野 まったく先の展望がなかったからというのが、正直な理由です。既存の学問への夢を失いながらも、就職もしたくなかったモラトリアム入院です。このときにも親には「もっと勉強を続けたいから」という理由で、入院(大学院に進学すること)を認めてもらいました、親を騙すのはかんたんですね(笑)。
学問に対するビジョンのようなものはあったのですか。
上野 当時から学問は「ごくどう」だと思っていました。無能者と書いて「やくざ」と読みますが、やくざがやるのが「ごくどう」です。世のため、人のためになるということを考えないで、自分が好きだからという理由で掘り下げていくのが学問ですから、学問をやる人は世間の役に立たない無能者ということになります。その考えは、現在も変わっていません。アートも「ごくどう」の極致です。アーティストは基本的に無用者で、何の生産性もなく、それ自体何の役にもたちません。スポーツも同様です。自分のやっている学問も、そうした数々の「ごくどう」とあまり値打ちは変わらないという意味で、自戒を込めて「ごくどう」という言葉を使っています。
人の役に立たないと、生活は苦しいですね。
上野 大学院の博士課程を出て、2年間はオーバードクターでしたが、まったく食べられませんでした。大学院とオーバードクター時代は、奨学金と塾講師や家庭教師などのアルバイトで生計を立てていましたが、天も地も呪いませんでした。世間の役に立ってないから、世間からお呼びがかからなくて当然、こっちも世間はお呼びでないと思っていましたから(笑)。好きなことをやってはいましたが、何の展望もなく、来年はどうなることかと思いながら、まさに「ごくどう」を続けていました。