新中学生へのメッセージ

あきらめなければ失敗は糧になり成功への通過点になる

国境なき医師団(MSF)日本 会長/外科医久留宮 隆さん


テレビで見たドキュメンタリー番組に感銘を受け、無医村で働く医師を志したという久留宮隆さん。医師になって20年後に国境なき医師団に参加し、以後、海外での国際医療人道援助活動をずっと継続しています。これまでの道のりを振り返っていただき、中高時代にやっておいてほしいことなどについてお聞きしました。

TOPIC-1

高校生活を謳歌し、宅浪を経て医学部へ

なぜ医師を目指されたのですか。

久留宮 身内の不幸を経験して中学の頃には医師になりたいと思っていましたが、その気持ちを固めてくれたのは、高校に入学する頃に見たテレビのドキュメンタリー番組でした。医師のいない村で孤軍奮闘する医師の姿を追ったもので、その働き方というか、生き生きとした姿に感銘を受け、自分も「無医村で働きたい」と思うようになりました。

高校では、医師をめざしてしっかり勉強なさったのですか。

久留宮 医師になるという思いはずっとあったのですが、そのために受験勉強をしたという記憶は一切ありません(笑)。全人教育を掲げる公立高校で、文武両道を謳い、何事も自分の頭で考え、興味を持ってやっていくことを推奨していました。そのため、部活の剣道は高校3年の秋近くまで続け、文化祭や体育祭では実行委員として活動し、友だちと一緒に夜遅くまで遊ぶこともありました。興味のある科目はしっかり勉強するのですが、そうでない科目は赤点を取ったりしていました。高校生活は謳歌していましたが、唯一勉強だけがおろそかになっていました。

それでも医学部に合格できたのですね。

久留宮 部活を引退した高3の秋から本格的に受験勉強を始めました。しかし、とても間に合いません。医学部を受験させてももらえず、他の理系学部を受けたのですが、そこも不合格。結局、浪人することにしました。ただ、私の家は経済的にあまり余裕がなく、大学までは国公立のみしか許されず、予備校にも通わせてもらえません。ですから宅浪生活を送ることになりました。ちなみに、男ばかりの3人兄弟ですが、3人ともすべて宅浪を経て大学に入っています(笑)。

たった1人での受験勉強は苦しくなかったですか。

久留宮 苦しくはありましたが、医学部に入るためにはここまで成績を上げなければならないという目標は明確でしたから、そこから逃げることはありませんでした。基本的に図書館に通って勉強していましたが、定期的に模試を受けては、自分の状況をしっかり把握するようにしていました。最初はD判定やC判定ばかりでしたが、今自分に何が足りないのかを分析し、それを補うことで徐々に成績を上げていきました。

TOPIC-2

ゼネラリストをめざし、卒業してからは猛勉強

どうして三重大学を選んだのですか。

久留宮 何よりもキャンパスの広い大学に憧れていました。また、医学部だけの単科大学よりも総合大学で勉強したいと思っていました。キャンパスの広さを調べていくと、1位が北海道大学、2位が東京大学ですが、このあたりは自分の学力では難しいと判断しました。三重大学は海に隣接していてキャンパスも広く、総合大学です。実家から通える交通アクセスの良さもあって、出願しました。

医学部時代には何か思い出はありますか。

久留宮 当時の医学部は、現在の6年間一貫のカリキュラムと違って、最初の2年間は進学課程として一般教養科目を学び、3年次から医学部に所属して本格的に医学の勉強を始めるシステムでした。そのため進学課程の間はほぼ遊んでいました。学部になると実習などで忙しくなるため、近くに下宿しましたが、最初の大学生活の癖が抜けず、今振り返れば、あまり熱心な医学生ではありませんでした。

なぜ、外科医の道に進まれたのですか。

久留宮 無医村での活躍が念頭にあったため、ゼネラリストになりたいという気持ちがずっとありました。体の一部だけしか診られない医師ではなく、何かあったときには全身をしっかり診られるような医師になりたいと思っていました。当時のゼネラリストといえば、外科と内科しか選択肢はありませんでした。現在の内科はカテーテル治療など積極的に治療を行うスタイルになっていますが、当時の内科は、私のイメージでは診断して薬を出すだけのイメージでした。もちろん内科医療も大切ですが、自分はそこに満足できるのだろうかとの思いがありました。それに対して外科は、身体のいろいろなところを診ることばかりでなく、全身状態を把握する事ができなければ術後管理はできません。それで私は外科を選択しました。

卒業後はそのまま三重大学医学部に入局します。

久留宮 大学受験のときもそうでしたが、私にはお尻に火がつかないと何もできないようなところがあります(笑)。ですから医師になってから「これからは大変だ」と、がむしゃらに勉強を始めました。大学まで続けた剣道で培った集中力を生かして、外科医として手術の腕も磨いていきました。専門は消化器外科で、大腸の腹腔鏡手術も三重県で最初に成功させています。しだいに外科医としての自信もついてきて、県内の中核病院などで外科医長も務めるようになりました。

TOPIC-3

初心を思い返して、国境なき医師団へ

イエメンの活動を共にした看護師長と。手術室のシステム改善や人事案件などを協力して行った(2018年)

どのような経緯で国境なき医師団に参加されたのですか。

久留宮 国境なき医師団の存在を知ったのは医師になって10年目の頃です。京都で開催されていた外科の学会に参加したときの国際講演で、海外の国境なき医師団の方の話を聞いて「すごい人たちがいるな」とは思ったのですが、その時すぐに自分が参加しようとは思いませんでした。まだ自分の中では成長が必要な段階で、機が熟していなかったんだと思います。それからさらに10年が経過し、医師20年目でふとある疑問が頭をよぎりました。「自分が中学の頃から思い描いてきた医師像と、現在の自分の姿はずいぶん違うのではないか」と。そして「自分は医師として何がしたいのだろうか」と自問するようになります。そんなときに思い出したのが、国境なき医師団の存在でした。現在のこの状況を打破するためにも、一度国境なき医師団の活動に参加してみようと思ったのです。

ご家族の反応はいかがでしたか。

久留宮 両親はかなり反対しましたが、言い出したらきかない性格のため、最終的には私が押し切る形で納得してもらいました。国境なき医師団の報酬は低く、年収は10分の1程度になりますから、家族にも迷惑がかかります。しかし、当時はこんなに長く続けるつもりはなく、半年か1年くらい経験したら、その後はまた別の道を考えようと思っていましたから、低収入はそれほど問題ではありませんでした。それよりも、新しい世界に飛び込んでいく喜びの方がはるかに大きかったのです。

2004年から国境なき医師団の活動に参加されました。

久留宮 最初の派遣先はリベリアでした。3カ月間のミッションでしたが、ものすごい衝撃を受けました。内戦は一段落していましたが、現地の医療はほとんど機能していません。派遣先の外科医は私1人だけですし、医療機器も揃っていません。それまでに学んだ知識と技術をフル活用して無我夢中で治療にあたりました。ですから、帰国するときは何ともいえない感情に襲われました。自分がなし遂げることができたうれしさもありましたが、それ以上にできなかった悔しさ、助けが必要な人たちを現地に残していくことへの思いなど、様々な感情が渦巻いていました。

おすすめの記事