第2部 パネルディスカッション
「AI時代に求められる中等教育とは」

本日のテーマ

 

1.生成AIとどう向き合うか

髙宮 第2部では、ChatGPTに代表される生成AIが私たちの社会を大きく変えようとしている今、子どもたちはどう生きていけばいいのか、中等教育はどうあるべきかを皆さんと議論していければと思います。
 まず、生成AIとどう向き合うかですが、今年の春先くらいから教育界でも大きな議論になりました。当初は「使わせないほうがいい」という論調が目立ちましたが、大学教育で一切使わせないわけにもいかないので、「適切に活用すべき」と、若干許容する方向に舵が切られたと認識しています。今年5月には、東京大学が「一律に禁止することはせず、その活用の可能性を積極的に探る」というメッセージを発信。7月に文科省が出した暫定的ガイドラインはもう少し慎重で、「子どもの発達の段階や実態を踏まえ、年齢制限・保護者同意等の利用規約の遵守を前提に、教育活動や学習評価の目的を達成する上で、生成AIの利用が効果的か否かで判断する」としました。麻布中学校・高等学校では、生成AIをどのように捉えていらっしゃいますか。

 ChatGPTが話題になり始めたのは2022年の秋頃だったでしょうか。私も試しに使ってみました。麻布の創立者の江原素六について、「江原素六とはどんな人物ですか?」と質問したところ、「江原素六は韓国の芸術家で、有名な陶芸家です」というとんでもない答えが返ってきて、まだまだ発展途上なのかな、と思いました。科学や技術に関する質問なら、かなり正確な答えが得られるようなのですが。大学では、学習支援ツールの一つとして生成AIを活用してもよいかと思います。しかし、中学生・高校生にとって、生成AIはむしろ有害で危険なものだと感じています。今の中学生・高校生はデジタル・ネイティブの世代であり、生まれたときからスマートフォンが身近にあったわけですが、私から見ると、彼らはスマートフォンでさえ安全で適正に使いこなしているとは言いがたいです。LINEでグループを作って誰かの悪口を書き込んだり、誰かの画像を勝手に拡散させたり、現実にさまざまなトラブルが発生しています。しかも、生徒同士のけんかやトラブルは、かつては目に見えましたが、今では見えないところで陰湿に行われているので、私たち教員も対処できません。インターネットを正しく使う教育ができていない今の状態で、生徒たちに安易に生成AIを使わせるべきではないと思います。もうひとつの懸念は、生成AIを使うと、生徒が自分の頭で表現を考えなくなるのではないかということです。先ほどの講演でも述べたとおり、中等教育で重要なのは、自分の頭で物事を考え、それを相手に伝わるように文章でしっかり書けるようになること。人は、自分の考えをテレパシーで相手に伝えることができない以上、自分なりに表現力を身につけなければなりません。その部分をAIにやらせてしまうと、オリジナルの表現ができなくなるのではないでしょうか。そんなわけで、私たち麻布の教員は生成AIについて今のところ静観していて、活用ガイドラインもメッセージも出していません。

髙宮 以前、平先生にインタビューをしたとき、「学校は生徒たちを守るシェルターだ」というお話が出ましたが、学校は生成AIに対するシェルターでもあるのですね。森上先生はいかがですか。

森上 慶應義塾普通部では、文科省のガイドラインに沿った形でのお知らせを、今年の夏休み前に保護者と生徒に配布しました。基本的には、「ファクトチェックをする」「個人情報は入力しない」などの約束事を守ったうえで、生成AIの限界と特性を十分理解して使ってください、というスタンスです。国語科の教員によれば、簡単な作文なら生成AIが書いたものかどうか見分けがつかないそうです。ちなみに慶應女子高では、ある生徒が課題制作に生成AIを使ったことが発覚して以来、生成AIは使用禁止になりました。本校の労作展で、「生成AI利用」と明記したうえで漫画作品を制作しようとした生徒がいましたが、有料版のChatGPTでも「使えない」と言っていました。ストーリーを作らせたものの、どこかで見たような筋書きしか出てこなかったし、原典がわからないのでファクトチェックのしようがなかったそうです。ちなみに、スマホも携帯電話も、本校では持ち込みを禁止しています。

髙宮 武沢先生はChatGPTとどう向き合われていますか。

武沢 実は今年3月の終業式のとき、生徒たちには事前に種明かしをしたうえで、「学院長あいさつ」を無料版ChatGPTに作らせてみました。スクリーンに私の映像を映し、私の声に変換してChatGPTのあいさつ文を再生したのですが、なかなか気の利いたことを話していました。ところが、5分ほどのスピーチの最後に「それでは皆さん、よい夏休みを」と締めくくったので、一同ずっこけました。欧米の学校の終業式は6月で、日本の学校の終業式は3月。ChatGPTは、その区別さえつかない。所詮はこの程度のレベルなのです。生成AIについては、私は平先生と少し意見が異なり、所詮はテクノロジーであり、恐るるに足らずと考えています。電卓が出てきて計算が楽になったように、ChatGPTもあくまでも便利なツールとして使いこなせばいいと思います。ChatGPTの開発元であるOpen AI社のサム・アルトマン氏が来日したとき、おもしろいことを言っていました。「日本も、日本の子どもたちも、生成AIを欧米より受け入れてくれるはずです。だって、鉄腕アトムやドラえもんの国でしょ」と。私の世代にとって、鉄腕アトムは「心やさしい科学の子」であり、ドラえもんは幅広い世代の支持を得ています。つまり日本人はロボットとの親和性が極めて高いのです。大切なのは、科学を絶対化して考えるのではなく、相対化して捉えること。生成AIには確かに、個人情報や著作権など問題が山積していますが、テクノロジーをいたずらに恐れるのではなく、相対化して見るマインドを子どもたちに持たせるべきではないでしょうか。

 

2.「書く力/考える力」のゆくえ

髙宮 生成AIによって、「書く」というアウトプットの作業を効率化したり、さらにはアウトソース(外部委託)したりすることが可能になりつつあります。そうだとすれば、「書く力/考える力」を重視する教育はこれから変わっていくのでしょうか。

森上 講演では理科のレポートについて紹介しましたが、本校は、他の教科でもさまざまな文章を書かせています。たとえば、国語では生活作文や文芸作品の創作。社会でも数学でも英語でも、何らかのレポートは必ず書かせています。「生徒たちにしっかり書かせている」という意識はあります。理科のレポートも国語の作文も、いずれも手書きです。コピペできないよう、手書きにこだわっています。生成AIに関しては、ファクトチェックや著作権に注意しながら、これからはやはりつき合っていかなければならないだろうと考えています。意外にも、国語科の教員が「生成AIは授業に使えそう」と言っています。作文指導に使えるというのです。生徒の中には、「作文がどうしても書けない」という者もいます。文章うんぬんというより、「何を書くか」という最初のアイデア出しのところでつまずいてしまうんですね。そんな生徒でも、「どんなアイデアがある?」「構成はどうする?」などAIと対話していけば、文字ベースで答えが返ってくるので、アイデア出しがしやすいということでした。生徒に文章を書かせるとき、これまで教師は文章の質を高めるための指導をしてきましたが、技術的な部分をAIに任せることができれば、「書きたい」「表現したい」という生徒の動機付けの部分が教師の仕事になっていくかもしれません。人間が人間である以上、自分の気持ちを誰かに伝えたいという思いは必ずありますし、自分なりの表現でそれが相手に伝わるとすごくうれしい。それが生きる喜びにもつながります。ですから、生成AIがどんなに進化しても、人間は書くという行為を手放さないし、書く力を高める教育も色あせることはないと思います。

髙宮 書く力について、武沢先生はいかがですか。

武沢 私たち教師は、刹那的なことと普遍的なことの両方を生徒に教えなければなりません。たとえば、新型コロナ対策や消費者教育など、現実社会で今すぐに必要な知識を教えながら、読み・書き・算盤という普遍的な能力も高めていく。これまでの教育では、クルマ社会になったら交通安全を励行するとか、インターネットが普及したらITリテラシーを教えるとか、テクノロジーの進歩は主に刹那的な教育にかかわってきました。ところが、生成AIの登場で、読み・書き・算盤という普遍的な教育の部分までテクノロジーに浸食されるようになりました。特に、「書く」「考える」という人として根本的な部分がテクノロジーに脅かされてきています。だとすれば、森上先生がおっしゃるように、学校現場での教育は、文章はすべて手書きで書くなど、むしろオールド・ファッションにこだわるべきかもしれません。大抵のことは、どこにいてもネットやYouTubeを見ればわかるのだから、学校ではひたすら、書道や算盤などアナログなことを教える、とか。これからの教育では、そういった切り分けの中で、自分たちのミッションを考え直さなければいけなくなるのかもしれません。

髙宮 平先生の麻布では、書く力をどのように考えているのでしょうか。

 武沢先生もおっしゃっていましたが、教育は基本的に保守的なものだと考えています。人類の数千年の歴史の中で積み上げてきた知識を次の世代に手渡して、社会を安定させていく。教育とは、そういうリレーのようなものだと思います。「書く力」ということで言えば、講演で紹介したとおり、毎年新入生に『江原素六の生涯』の読書感想文を書かせています。文字数は900字。その課題をこの10年続けていますが、残念ながら、生徒たちの書く力が年々落ちてきているのを感じます。そもそも、「書く力」の前に「読む力」が衰えてきている。休み時間になると、かつては文庫本や新書を読んでいる生徒をよく見かけましたし、毎週月曜日に週刊少年ジャンプを回し読みしている場面もよく見ましたが、今の生徒は漫画すら読んでいません。私たち教師の立場からすれば、漫画でもいいから読んでほしいと思います。

 

3.問われる「英語教育・国際教育」の意義

髙宮 AIによって、自動翻訳・音声通訳の性能は飛躍的に向上しています。こうした時代に英語を学ぶことや国際交流の意義については、どのように考えているでしょうか。

武沢 私は学院長ながらハンドボール部の顧問も務めているので、この夏、部の合宿で山中湖に行ってきました。その際、JR御殿場駅前のバス乗り場で驚きの光景を目にしました。ものすごい数の外国人観光客を相手に、高齢の女性が一人でチケットを売りさばいていたのです。その女性と外国人との会話を成立させていたのは、いわゆるポータブル翻訳機。女性が翻訳機に日本語で話しかけてからディスプレイを客に見せると、結構込み入った話でもきちんと通じるのです。これを見て、「私たちが英語教育で目指すものは一体何なのだろう」と思ってしまいました。英語を全く知らなくても、ポータブル翻訳機があれば英語でコミュニケーションできてしまうのですから。講演で紹介したように、早大学院の前身は大学予科なので、生徒全員が中3から英語以外の第2外国語を履修します。すると、外国語を勉強するのはコミュニケーションのためばかりではないと気づかされます。たとえフランス人やドイツ人と話す機会が一生に一度もなかったとしても、フランス語やドイツ語の文型と語形を知っていれば、英語や日本語と比較したり、なぜその形になっているのか、文化の違いに気づけたりします。英語教育というと、これまで私たちはコミュニケーションを重視しすぎていたかもしれない。これからは、「英語でどう伝えるか」よりも「英語で何を伝えるか」のほうが重要になるかもしれません。ツールよりもコンテンツが大事なのです。

髙宮 言葉の語順の違いは思考方法の違いなのかもしれませんね。そういうことを含めて、語学教育は奥が深そうです。国際交流についてどうお考えですか。

 本校では中国、韓国、カナダ、ガーナ、シンガポールの中高生と国際交流を図っています。基本的には英語で意思疎通をするのですが、外国の生徒と交流するたびに、本校の生徒は英語ができないことを痛感しています。数年前、台湾からの修学旅行生が本校を訪ねてくれたことがあって、ほとんどが女子学生だったのですが、自分の英語ではコミュニケーションがうまくいかず、多くの生徒が悔しい思いをしたようです。翻訳機があればコミュニケーションは図れるでしょうが、face to faceで会話するには、やはり英語が話せたほうがいいと考えます。外国語がわかれば、言葉を通して相手の文化や社会を知る手がかりにもなるので、語学教育は重要だと思います。

森上 私は理科の教員なので、事前に英語科教員に話を聞いておきました。すると、武沢先生がおっしゃるように、テクノロジーはすでに実用のレベルに達しているようです。とはいえ、たとえつたない片言の英語であっても、お互いに目を見て自分の言葉でコミュニケーションを取れるほうがうれしいのではないか、とも言っていました。本校は定期的にフィンランドとオーストラリアの学校と国際交流プログラムを実施していますが、やはり外国人と直接コミュニケーションを取るのは中学生にとって得がたい体験ですし、語学学習に対するモチベーションも高まります。フィンランド人の母語はフィンランド語であり、彼らは必ずしも英語が得意というわけではありません。それでも、お互いに何とかコミュニケーションを取ろうとするうちに、心の交流が生まれる。その体験こそが貴重なのです。フィンランドから帰国した後、ある生徒の母親が「うちの子は優しくなりました」と教えてくれました。これまで邪険に扱っていた弟に対して優しくなり、弟の話にも聞く耳を持つようになったとか。外国人とのコミュニケーションが彼に寛容の大切さを教えてくれたようです。国際交流は、生徒を人として成長させてくれるものでもあります。

 

4.「どう生きるか決める力」を生み出す環境

髙宮 AIの進化、グローバリゼーション、パンデミックなど、社会にさまざまな変化が生じても、子どもたちは自分で考え、生きる道を切り開いていかなければなりません。そんな力を育む環境としての、学校行事や部活動について教えてください。

 たとえば、山登りを考えてみましょう。険しい山道を登っていく途中、必ずしも山頂が見えるわけではありません。歩くうちに汗でびしょびしょになり、疲れてへとへとになりながらようやく頂上に達すると、ぱっと視界が開け、自分の登ってきた道や美しい景色が見え、心から感動する。努力して山道を登ってきたからこそ、大きな喜びがあります。もし、ヘリポートからヘリコプターで一気に山頂まで飛んできたとしたら、この感動は味わえないし、山登りをした体験にはなりません。学校というのは、あえて汗を流していろいろな体験を積み重ねる場所だと思います。学校行事、自治活動、部活動もそんな汗を流す体験に含まれるでしょう。麻布に生徒会はありませんが、自治活動には予算委員会、選挙管理委員会、サークル連合があり、それぞれ主体的に活動しています。クラブ活動は文化系が20、運動系が25あり、学校行事では中3と高2で行う学年旅行、学園の華である文化祭、運動会があります。

森上 今年、夏の甲子園で優勝した慶應義塾高校は本校とは別学で、慶應普通部は中学校の3学年のみ。本校が標榜する労作教育とは、「自ら考え自主的な選択や決定ができるようにする教育」です。普通部での3年間は、何をするか自ら考え、自分で選んで決定する作業をひたすら繰り返します。労作展でも、生徒からはたらきかけなければ、教員は動きません。何事も、生徒自身が決めて行動する。その繰り返しが、「どう生きるか決める力」になっていきます。

武沢 先日、あるアントレプレナーシップ関連のイベントに呼ばれ、本校代表として参加してきました。早大学院がなぜ呼ばれたのか最初は不思議でしたが、思い返してみると、確かに本校の卒業生には起業した人が多いのです。なぜ、本校の卒業生に起業家が多いのか。答えはすぐに思い当たりました。本校では文化祭や体育祭における自治活動が極めて盛んなのです。自治活動の活発さでは麻布学園が有名ですが、本校も麻布に近い雰囲気があるかもしれません。

 

5.保護者へのメッセージ

髙宮 このディスカッションの最後に、本日ご来場の受験生・保護者の皆様へ、一言ずつメッセージをお願いします。

森上 皆さんのご子息には、知識に加えて経験を重ね、ぜひ知恵が身につくよう心を配ってあげてください。激動の時代、ご子息はこれから論理的な正解のない世界へと飛び出していきます。そんな世界で、ご子息が何かを判断する際の“よすが”となるのは、それまでの経験で培われた知恵以外にありません。また、適切な意思決定は、理性と感情の両方がバランス良くはたらいていないとうまくいきません。頭だけではなく、身体もきちんと伸ばしながら、ご子息が素敵な未来を迎えられるよう祈念しております。

武沢 私の言うことは決まっています。小学生の皆さんには、「ゲームをやめて、本を読め」。保護者の皆さんには、本日集まった3校のうちどの学校を選んでもいいですから、来年2月の試験日でまたお会いしましょう。

 心理学用語に「レディネス」という言葉があります。心の準備ができていないと、「勉強しなさい」といくら言葉掛けしても、子どものやる気のエンジンは始動しません。男の子は特にその傾向が強いです。ですから親御さんとしては、学校説明会や文化祭にこまめに連れ出し、本人のエンジンに点火するのを待つのがいいと思います。どうかご子息に合う学校を選んであげてください。そこから先は、私たちがお手伝いします。

髙宮 本日は貴重なお話をありがとうございました。

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