慶應義塾普通部 部長 森上 和哲 先生

第1部 特別講演(2)
精出して労作すれば自由になる

小学生からこんな質問を受けて困った、という新聞記事を読んだことがあります。「なんで人を殺しちゃいけないんですか?」。皆さんならどう答えるでしょう。世の中には答えのない、答えられない問いがありますね。

しかし、一つわかることがあります。それは、「質問した君のいるところは平和なんだね」ということです。なぜなら、世界で戦争している地域、例えば今まさに空爆を受けているウクライナの子どもたちは、爆弾が降り注ぐさなかに、こんな質問はしませんよね。ウクライナの子どもが言うなら、次のセリフです。

「なんで人を殺すんですか?」。だって、今まさに自分が殺されそうになっているんですから。だから、「なんで人を殺しちゃいけないんですか?」と質問できる人は恵まれていると思います。でも、それにはなかなか気づきません。

次の問いも同じですね。「なんで勉強しなきゃいけないんですか?」。この質問ができる人は恵まれています。なぜなら、宗教や政治のせいで「勉強しちゃダメ」と言われている子どもたちが世界にはいるから。貧しかったり、戦争が起きていたりするせいで、勉強したくてもできない子どもも世界にはいます。そんな子どもたちは、きっとこう言うでしょう。

「なんで勉強させてくれないんですか?」。彼らはなぜ、勉強したいのか。それは、「勉強して知識と知恵が身につけば、この国から抜け出せる」と思っているから。あるいは、もっと志のある子なら、「勉強して知識と知恵を身につけて、この国をもっと良くしたい」と思うでしょう。

「なんで勉強しなきゃいけないんですか?」。もし君がこの質問を思いついたのなら、君は恵まれているということです。では、恵まれている君たちは何をしたらいいのでしょうか?

それは「知ること」です。小学生の君たちは、経験も知識も、もっともっと身につける必要があります。まずは世界を知ってほしい。この世界がどんなふうに成り立っているのかを「知ること」、そして世界のありさまを「経験すること」。

そうやって世界を知り、世界を経験するうちに、自分の「やりたいこと」や「やるべきこと」が出てきます。そうなったら、その「やりたいこと」「やるべきこと」をやり続けてほしい。やり続けて何かを作り出し、残していってほしいと思います。作り出したもの、それが君たちが「生きた証」になるのです。もちろん、そこまで行くのはまだ先の話なので、まずは自分の力をつけていってほしいと思います。

では、そういった力をつけるために、慶應普通部が何をしているかについてお話しします。普通部は今年普通部125年を迎えました。多くの人に支えられながら節目の年を迎えることができ、感謝しています。この125年を機に、私たちは「労作教育」という教育方針を掲げることにしました。普通部の恒例行事である「労作展」は、この労作教育の理念を形にしたものです。

「精出して労作すれば自由になる」。今日の講演タイトルにもなっているこの言葉は、およそ100年前に「労作展」を始めた普通部部長、小林澄兄の言葉です。「労作して何かを作り出せば、僕らは心も身体も自由になれる」という意味です。

では、労作教育とはいったいどういうものか。本校のホームページには次のように記載しました。「時間を惜しまずに自分の心身を思う存分に活動させて、その中で自ら考え自主的な選択や決定ができるようにする教育」。

普通部生は受験することなく慶應義塾高校や慶應義塾志木高校に行けますから、時間はたっぷりあります。その時間を使って労作しよう、何かを作り出そうということです。その際に頭で考えるだけでなく、身体も使って、自分の心と身体を思う存分活動させて、努力と工夫を重ねながら何かを作り上げよう、成果を得ようと努力すること。これを私たちは「労作」と呼んでいます。

労作するときは、自分でいろいろと考えながら、「これをやろう」「こうしよう」と自分で決めていきます。何かをするということは、決断の連続です。大きな決断、小さな決断を積み重ねながら、何かを作り上げていく。これは、私たち普通部が以前から唱えていた「自ら学び自ら考える」ということの別の表現形でもあります。

では、具体的に何をするのでしょうか。私の担当する理科では、もちろん授業もしますが、毎週100分間の実験を行っています。実験は楽しく、みんな喜んで取り組みますが、やりっぱなしだと実験内容をすぐ忘れてしまい、定着しません。だから実験の後にレポートを書いてもらっています。900字詰めのレポート用紙に手書きで、一人5枚から10枚程度。10枚書けば9000字になるので、これだけの文章を書くのは大変です。でも毎週毎週、3年間繰り返すうちに力がついてきます。どんな力かというと、実験を振り返り分析する力、わからないことを本やネットで調べる力、友だちと相談したり議論したりする力、自分の考えを他人にわかりやすく表現する力、時間を管理する力、などなど。こうして、生きていくうえで必要な力が日々の学習で知らないうちに身についていきます。こういうことを理科だけでなく、他の教科でも同じように実践しています。

受験を終え、普通部に入学した生徒の保護者の方に必ず言われる言葉があります。「入学後にこんなに勉強するとは思っていませんでした」。鉄は熱いうちに打て、と言われるように、普通部は生徒の学びを止めません。ただし、小学校での学びとは少し異なります。小学校では正解やゴールのある学びが多いですが、普通部での学びには正解のない学びのほうがふえてきます。生徒は労作を重ねながら、正解のない学びに全力で取り組みます。

労作は授業以外の学校行事でも行われます。まず挙げられるのが、生徒のさまざまな成果物を展示する労作展です。昨年は、自ら土器を作って縄文・弥生時代の塩づくりに挑戦した実証実験や、キックボードにお父さんの古いバイクのエンジンを積んで作った自家製バイク、4次の魔方陣の研究など、ユニークな作品が並びました。特に自家製バイクは、役所と相談して公道が走れるようにナンバーまで取得しました。

各分野の第一線で活躍する普通部卒業生をお招きして語っていただく「目路はるか教室」の講話も、生徒たちに大きな影響を与える行事です。例えば、弁護士となった卒業生の話に感銘を受けたある生徒は法律の勉強をはじめて、高校進学後に史上最年少で司法試験に合格しました。生徒たちはそうやって労作を重ねながら、自ら学び自ら考え、自分自身をも作り上げていきます。

正解のない時代といわれます。だからこそ、生徒たちは自分の頭で考えながら労作して、力をつけ、自分が目指すところを探していきます。人が作った問いではなく、自ら問いを立て、答えを探す人であってほしい。慶應普通部はそんな皆さんを待っています。

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