早稲田大学高等学院 学院長 武沢 護 先生

第1部 特別講演(3)
スマホをやめて、本を読め

皆さんの中には「早稲田大学高等学院」という名称を少し不思議に思う方がいるかもしれません。例えば、慶應義塾幼稚舎は「小学校」と名前の付かない小学校です。また、慶應義塾普通部は「中学校」と名前の付かない中学校です。同じように、早稲田大学高等学院も、実は「高等学校」と名前の付かない高等学校なのです。

この名称には、本校の歴史が関係しています。早稲田大学高等学院は1920年、旧制早稲田大学の予科として創立されました。今でいえば、大学の教養課程として誕生したわけです。その後、第二次世界大戦を経て、学制改革により1949年に新制早稲田大学高等学院として再スタートを切りました。この時点で大学となる選択肢もありましたが、名称はそのままに、あえて高等学校になりました。「高等学校」という名が付かなかったのはこのためです。
 そして2010年、早稲田高等学院中学部が開設されます。先ほど登壇された麻布中学校と慶應義塾普通部は共に120年以上の歴史がありますが、わが中学部は誕生して13年足らず。まだまだひよっこです。

学校にはそれぞれ教育目標がありますが、本校は早稲田大学の付属校なので、教育目標も早稲田大学と同じです。早稲田大学は教育目標として「三つの教旨」を掲げています。すなわち、「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」です。しかし、これらの目標を現代の、しかも中高生に理解してもらうのはなかなか難しいと思います。そこで、学院長に就任した私は、「三つの教旨」を「3つのC」、すなわちCuriosity(知的好奇心)・Courage(勇気)・Contribution(貢献)と、それぞれ、次のように言い換えました。

「学問の独立」とは、Curiosity=知的好奇心を旺盛にして自ら学ぶこと。「学問の活用」とはその学びを生かし、さまざまな課題に対し創造的に解決することに、Courage=勇気をもって挑戦すること。「模範国民の造就」は、よりよく生きることであるととらえ、身体を鍛え、個性を磨き、自らが犠牲となることをいとわず世の中にContribution=貢献すること。

では現実的に、どのようなカリキュラムを考えているのか。本校は慶應義塾普通部と同様、ほぼ100%早稲田大学に進学しますので、中高大の一貫教育をベースにした教養教育を行なっています。私の専門は数学と情報なので、単なる教養教育ではなく、「ICTを活用する教養教育の実現」というテーマを掲げました。具体的には、「基礎基本教育の徹底」と「探究的な学びの推進」という2つの柱を立て、前者では「すべての教科での読む力、書く力、数学する力」を重視し、後者では「批判的思考力、コミュニケーション能力、協働力、創造的問題解決能力」を養成します。

大学入試選抜の必要がないことは、本校の大きなアドバンテージだと考えています。なぜなら、受験のために生徒を文系・理系に分ける必要がないからです。事実、本校では、いわゆる文系志向の生徒にも数Ⅲや物理・化学・生物・地学の理科4科目をしっかり学ばせ、理系志向の生徒にも、日本史・世界史・地理の社会3科目をきちんと学ばせます。答えのない問題の解を探さなければならない今の時代、これまでのように物事を文系・理系に分けて考えるべきではありません。そういう意味で、本校の文理融合のカリキュラムは、これからの時代に即したものだといえます。

さて、私の演題にある「スマホをやめて、本を読め」の話をしましょう。実は、私は当初次のように生徒たちに呼びかけていました。「スマホを捨てて、本を読め」「検索しないで、考えろ」。「スマホを捨てて……」は、早稲田大学に在籍していた詩人・劇作家の寺山修司さんの著書『書を捨てよ、町へ出よう』をなぞったものですが、私のこの発言について、図書委員会の実施した生徒アンケートでは圧倒的多数で否定されました(笑)。「学院長の発言は時代遅れだ」「スマホを捨てたらオンライン授業支援システムにアクセスできないじゃないか」と非難ごうごうでした。そこで、表現を少しやわらかくして、今では「スマホをやめて、本を読め」と言うようになりました。

そもそも、「本を読む」とはどういうことか。そこで、先人たちが読書について何と言っているか、少し調べてみました。まず、早稲田大学の創立者である大隈重信老公。老公は本を書かなかったので、演説集から読書に関する言葉を引いてみます。「勿論暇さえあれば吾輩は書物を読む」「学究先生が書物本位の読書法は、ややもすると実際にかけ離れて、空疎迂遠の弊に流れる傾きがある」。大隈老公はやはり政治家ですね。彼の発言を言い換えれば、「本なんか読んでいるより、実際に行動に出るほうがいい」ということでしょう。

次に福澤諭吉先生。彼は『学問のすゝめ』に次のように書いています。「学問はただ読書の一科に非ずとのことは、既に人の知るところなれば今これを論弁するには及ばず。学問の要は活用にあるのみ。活用無き学問は無学に等し」。読書することだけが学問ではなく、活用できなければ学問ではない、と福澤先生は言っています。あくまでも実学を重視した先生らしい言葉といえます。

最後に17世紀に活躍した哲学者・数学者のデカルトを取り上げます。私は数学が専門なので、デカルトが好きでよく読むのですが、彼の著書である『方法序説』に、次のような言葉があります。「すべて良書を読むことは、著者である過去の世紀の一流の人びとと親しく語りあうようなもので、しかもその会話は、彼らの思想の最上のものだけを見せてくれる、入念な準備のなされたものだ」。デカルトはこう言って読書を肯定しています。しかし、デカルトは後に、読書を否定するようなことも書いています。デカルトの著名な研究者である野田又夫氏は、ある評論で次のように書いています。「数学をやるには書物は必要でなく、すべて自分の頭で発見し、発明しうる。デカルトは本を読んで問題にさしかかると先に読むことをやめて自分で答えを見つけようとし、発見の喜びを自己から奪われぬようにした」と言っています。なかなか味わい深い話だと思います。

いつの時代においても、本を読むことは人間にとって極めてベーシックな営みであり、かつ、高度で知的な営みでもあります。しかしながら、時には答えを本に求めるのではなく、自分の頭で考えなければならない場面もあります。これからのAI時代において、本を読むことはどんな意味を持つのか。その辺りについては、次のパネルディスカッションで皆さんと共に考えてみたいと思います。

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