慶應義塾普通部 部長 荒川 昭 先生

特別講演(2)
「普通」の学びと自己表現の涵養

慶應義塾を創設した福澤諭吉は、その目的として、次のような言葉を残しています。「慶應義塾に学ぶ者は常に、『気品の源泉、智徳の模範』となり、かつ、『全社会の先導者』となるように努めなければならない」。また「独立自尊」は自他の尊厳を守り、何事も自分の判断・責任のもとに行うことを意味する、慶應義塾の基本精神であります。

これら慶應義塾の目的や基本精神を受けて、私たち普通部では、中学の段階から、自ら学び、自ら考えることを重要視しています。なぜなら、「全社会の先導者」となるからには、誰かに「解」を教わることなく、自ら進んで「解」を得なければならないからです。と同時に、その「解」がどんなに優れたアイデアであっても、それを先導者としてきちんと伝えることができなければ、社会の合意を得ることはできません。そこで私たち普通部では、自分の考えを相手に伝えるための自己表現を何よりも大切にしています。

福澤諭吉といえば、『学問のすゝめ』の「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」が有名ですが、もう少し先まで読み進めると、次のような文章が出てきます。「されば前にも言えるとおり、人は生まれながらにして貴賤・貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり」。この後、福澤先生は学問について言及します。「もっぱら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり」。この「人間」は「じんかん」と読み、「普通」は「当たり前」という意味ではなく「あまねく通じる」の意味です。「実学」も、当時の意味は「サイヤンス」、すなわち「科学」を指しています。また、それ以外にも、「世の中に最も大切なるものは人と人の交り付き合いなり。それすなわち一の学問なり」と、人間交際の大切さも説いています。ここに出てくる「普通」が、慶應義塾普通部の「普通」であります。

1858年に創設された慶應義塾は1890年、新たにもうけた専門的に学ぶ課程を「大学部」と定め、従来の課程を「普通部」とよぶことにしました。慶應義塾普通部の歴史は、このときから始まっています。その後1898年に一貫教育体制が整い、幼稚舎6年、普通部5年、大学部5年となります。ご存知のとおり、「高校」はありません。慶應義塾普通部は大学部開設時からの名称で、大学の付属として誕生したわけではなく、一貫教育体制が整ってからずっと「男子中学校」であります。

普通部では理系・文系に偏らず、すべての科目をまんべんなく学びます。大学受験のための勉強も大切ですが、理系・文系に分かれて勉強するということは、自分のもう一方の可能性を切り捨ててしまうことにもなります。今後、社会はいっそう複雑化していくと思われ、複雑な問題ほど、解決するには文理融合した知識が必要になるのではないでしょうか。そこで私たちは、体育などの実技も含め、すべての科目を平等に扱っています。たとえば理科では、毎週実験を行い、毎週レポートを書くことを大切にしています。そうしたなかで、自己表現力を育てることが最も重要ではないかと考えています。聞く力・話す力・読む力・書く力・発表する力・考える力がなければ、自己表現はできません。

各教科ともに、自分の考えをまとめ発表する機会を多くして、例えばプレゼンテーション、レポートを書く、ノートにまとめる、テストなどを行い、数学では論理的な思考を大事にして、国語では文章を深く読む、加えて作文などを書き、理科では毎週実験を行い、毎週レポートを書いています。社会でも地域についてのレポートを作成し、発表することで、調べる力、まとめる力、プレゼンの力を養っています。また、コンピュータの授業で全員がプログラミングを行い、美術・技術などの実技科目では作品制作の力を養っています。

「テストに出るから覚えなさい」はモチベーションを最も下げる方法と考え、生徒の「なぜ」「どうして」を学びの本質として重視しています。

普通部の特徴は、あまねく通じる「普通」の教育、大きな行事である「労作展」と「目路はるか教室」に表れています。

2019年で91回目を迎える「労作展」。リニアモーターカーを作った生徒は、車体を浮かせて動かすため、磁石の強度や配列を工夫したという。

「労作展」は知識偏重に陥ることなく、手を動かす大切さを伝えるため、1927年にスタートしました。91回目の2019年は9月22日と23日に開催されます。生徒たちは夏休みが終わるまで、論文やアートなどの作品づくりに真剣に取り組みます。毎年9月になると生徒たちの作品が出そろい、それが論文類であれば、教員は何本もの生徒の論文を熟読し、生徒が情熱をもって必死で書いた論文を、責任もって一人ひとりコメントをして評価します。生徒と教員の1対1のぶつかり合いなのです。鉄道が好きなある生徒は、中1で小田急線の車両を、中2でリニアモーターカーの車両を作りました。リニアモーターカーは、線路と車体への磁石の配置方法を試行錯誤しながら決めていったそうで、実際に宙に浮いて走る力作でした。このような試行錯誤には教科書から得た知識だけでは解決できないことが多くあり、スケジュール管理から困難に立ち向かう力を含めて、卒業して社会で求められる様々な力が養えるのが労作展だと思います。

「目路はるか教室」は、普通部OBを講師に招いての特別授業で、学年別全体講話と20人~30人規模のコース別授業があり、OBのさまざまな職場を見学させてもらうなど、多彩な授業になっています。これは単なる職場体験ではなく、先輩から後輩への熱い気持ちや先輩の生き様を伝えてもらう機会になっています。

目路はるか教室 2018年度のラインナップ (抜粋)
1年(全体)徳川 斉正(東京海上日動火災保険株式会社)『彰往考来』歴史に学んで未来を考えよう!
2年(全体)朝倉 陽保(株式会社丸の内キャピタル)投資ファンドの世界
3年(全体)平井 昭光(レックスウェル法律特許事務所)前へ進むこと-変革の時代を迎えて
1年A峯村 隆二(大日本印刷株式会社)「である」ことと「する」こと
-学生時代から今までを振り返って-
B小室 誠治(公益財団法人
日本ユースリーダー協会)
商社マンとサッカーの人生
C杉江 俊彦(株式会社三越伊勢丹ホールディングス
株式会社三越伊勢丹)
人と時代をつなぐ三越伊勢丹グループ
D持田 一夫(株式会社東急コミュニティー)マンションに住むということ
E江本 裕(株式会社ジェイデバイス)半導体のお仕事、海外でのお仕事
F三田 大樹(三菱商事株式会社)国際的なビジネスマンになるために必要なこと
G市川 卓広(ソニー株式会社)人間の眼を超えるセンサーで
私たちの暮らしをどう変えるか
H阪埜 浩司(慶應義塾大学医学部産婦人科)「異端を懼れず」~医学への福澤先生の想い~
I松添 聖史(ベーカー&マッケンジー法律事務所)国際金融弁護士として考えること
J上原 健(大正製薬株式会社)日本の未来とヘルスケア産業

そのほか、普通部には早慶戦応援、校内大会、運動会、芸術鑑賞会などさまざまな行事や、学校の名前を背負って切磋琢磨する多くの部会活動もあります。

普通部では、私が教員になった30年以上前のパソコンがない時代からFortran言語での大型計算機の実習を大学の計算機センターをお借りして実践していました。そして新しくなった校舎でタブレット端末、ノートPCを使った双方向授業がスタートし、フィンランド、オーストラリアの学校との相互交流など、普通じゃない「普通部」に向けて歩み始めています。

普通部では「卒50年の会」というものがあり、卒業後50年たった65歳のOBが、1学年240人のうち100人以上参加してくださいます。普通部はそれだけ卒業生に愛される、絆の強い学校です。私たちはこれからも、普通部が好きな生徒を育てていきたいと考えています。機会があれば、労作展にもぜひご来校いただければと思います。

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