中学受験と子育てを考えるフォーラム

特別講演(1)「普通」と「人間(じんかん)交際」による学び

荒川 昭 先生
慶應義塾普通部
部長
荒川 昭 先生

 「慶應義塾に学ぶ者は常に、『気品の泉源、知徳の模範』となり、かつ『全社会の先導者』となるようにつとめなければならない」。これが福澤諭吉先生の慶應義塾建学の目的です。つまり、知徳とともに気品を重視し、人格を備えた先導者にならなければならないということです。

 また、福澤先生は慶應義塾の基本精神について、「独立自尊」という言葉も残しています。「自他の尊厳を守り、何事も自分の責任のもとに行う」という意味です。この慶應義塾の目的と基本精神を踏まえ、中学段階で身につけなければならないこととして、普通部では「自ら学び、自ら考え、日々こつこつと学びを続けることで、自ら判断・行動し、自己表現すること」を大事にしています。

 先導者は、誰かから答えを教えてもらうことはありえません。ですから、自ら進んで学び、自ら考えることはとても大事なことです。また、せっかく良いアイデアがあっても、ほかの人に理解してもらえなければそれを生かすことはできません。そのため、普通部の授業では、自己表現をすることも大事にしています。授業では、教科書を使わない授業も多く、授業ノートを作ること、作文・レポートなどにより書く力、プレゼンテーションやスピーチなどを通じて話す力なども重視しています。

 次に、普通部生はどういう学校生活を送っているのか、授業以外の部分について少しお話ししたいと思います。数々の行事がありますが、そのなかでも最も大事な行事の一つといえるのが労作展です。1927年に始まり、今年で90回目を迎える伝統的な行事です。1年をかけて作品制作に取り組むのですが、テーマ設定は自由で、作業は完全に本人任せです。大人の手がまったく入らない自己表現をする大切な行事だと思います。

労作展毎年、労作展は多くの受験生・保護者でにぎわう

 今の中学生は、失敗しないようにいろいろな形で大人の手が入りながら育ってきています。しかし労作展に関してはそのようなことはまったくありません。作業を進めていくと、うまくいかずに困難に直面します。困難に立ち向かうことで、社会人でも必要なスケジューリングの力が養え、解決のためにこつこつ努力を続けて、自分で乗り越える力が身につきます。そのチャレンジは、成功する場合も、失敗する場合もあります。しかし学校としては失敗を悪いこととは考えていません。マニュアル通りにおこなって得た成功より、困難という壁に当たった失敗の方が得るものは大きいはずです。多くの普通部生は、労作展で苦労したことが、中学校生活の大きな思い出になっています。失敗しないよう大人が手助けをしていては、自立をするのは難しいでしょう。生徒が情熱を傾ける労作展は、高校受験や大学受験がないからこそ実施できる、自分を成長させる機会の一つです。

 行事や部会活動についてですが、普通部には運動部だけで22の部会があり、校内大会、早慶戦観戦、林間学校、自然学校、海浜学校をはじめ、行事の数も他校に比べて多いかと思います。行事や部会活動は、友人と体験を共有することで多くのことを学ぶ場であると考えています。普通部らしさが表れている運動会について紹介すると、事前に行進の練習はせず、ほぼぶっつけ本番です。応援の練習などもしません。応援は、応援しようという気持ちで自然発生的に行うものだと考えています。

 普通部は生徒が友だちに興味を持っている学校です。たとえば友だちが走っているのを見るより、自分が英単語を一つでも多く覚えたいと思っている生徒が多い学校では、運動会は実りあるものにならないはずです。運動会で一生懸命走る普通部生の姿は、体育の授業とそれぞれの運動部で日々練習し鍛えられたものです。この各競技に真剣に取り組む姿が、みんなを自然と応援に駆りたてます。こうしなさいと上から押し付けるのではなく、先輩の“熱量”が伝統として後輩へ伝わり、自発的に応援したいという気持ちになる、そういう運動会だと思っています。

 先輩から後輩へ経験や知見を伝える機会としては、「目路はるか教室」もあります。さまざまな分野の第一線で活躍している卒業生を講師に招いての特別授業で、1998年の普通部百年を機に始まりました。一学年全体にお話をする学年別の全体講話と、30名程度ずつが希望する現場に分かれて先輩から教えを受けるコース別授業があります。工場に行って見学することも、和菓子を作ることも、最先端の医療現場を見学することもあります。

目路はるか教室

 この目路はるか教室で最も大切なこと、それは職業体験ではありません。先輩が後輩に伝えるメッセージ、これこそがいちばん大切だと考えています。先輩方はお忙しいなか、何の面識もない後輩に対して何時間も熱く語り、指導し、面倒を見てくださいます。本当にありがたいことだと思っています。学校を出た後、将来自分は何をして、どういう人間になりたいのか、そういうイメージを描くことができる機会になると考えています。

 普通部の「普通」は、「普(あまね)く通じる」、すなわち「広く通じる」という意味です。ゆとり教育でいろいろな制度が変わり、また2020年度から大学の入試制度改革が行われることで教育現場も対応を迫られています。しかし、たとえ制度が変わっても、教育の根本は変わらないはずです。変わってはいけない本当に必要なこと、大事なことがあるはずです。それが、福澤先生が名付けてくださった「普通」の部分であり、授業においてもその変わってはいけない本質的な部分を大切にしていきたいと考えています。土台、基礎、基本を身につけ、福澤先生が「世の中に最も大切なるものは人と人の交り付合いなり。それすなわち一の学問なり」と言われたように人間(じんかん)交際を重んじ、本気で学問をする生徒を応援する学校でありたいと思っています。

 普通部では卒業50年の節目に同窓会があります。中学での3年間の付き合いが65歳になっても続きます。自分の人生と学校の存在がシンクロする、普通部は一生付き合える学校だと自負しています。