父親の仕事の関係で、日本とアメリカを行き来する学校生活を送った後、日本で看護師として働き始めた坂本史衣さん。臨床の現場が合わずに退職しましたが、アメリカの大学院で公衆衛生学を学び、現在では病院の感染管理の専門家として活躍しています。これまでの道のりを振り返っていただき、中高時代に心がけておきたいことなどをお聞きしました。

TOPIC-1

生活拠点が定まらず日米の中学校を経験

どんな子ども時代を過ごしていたのですか。

坂本 日本で生まれましたが、2歳のときに父の仕事で渡米し、小学2年で帰国。中学2年の終わりに再び渡米し、高校卒業までアメリカで過ごしました。日本でもアメリカでも引越しが多く、住所もたびたび変わるため、荷物も必要最小限のものだけになりました。ここが拠点だという感覚はなく、長く付き合うことができる友だちも少なかったため、一人で過ごす時間が多かったように思います。

言葉で苦労されたのではありませんか。

坂本 7歳までは完全に英語の生活でした。親が日本語を話すため、親が言っていることは理解できても、日本語で返すことができませんでした。そのため、日本の小学校に編入したときは、日本語の読み書きに少し苦労しました。それ以後はずっと日本語の生活でしたから、日本語は大丈夫になりましたが、今度は英語の方があやふやになってきました。聞いて何となく理解はできても上手く話せません。そんな状態でアメリカの中学に編入したため、ネイティブのスピードについていくことができず、再び英語の習得に苦労することになりました。

どのようにして英語力を回復されたのですか。

坂本 アメリカの中高生は、ものすごい量の本を読まされます。分厚い教科書や小説を何十ページも読んでくる課題が各教科で出されるのですが、一人で辞書を引きながら読んでいたらとても読み終えることはできません。すると父親が手伝ってくれました。父が横に座って、この言葉はこう、この言葉はこうと、次々に訳しながら読んでくれるのです。そのやり方を3週間くらい続けていると、文の構造がだんだん頭に入ってきて、読むのが早くなり、授業も理解できるようになりました。文の構造の大事なところだけをおさえてどんどん読んでいくこの勉強法はとても効果的でした。今では、自分の子どもにも同じ方法で教えています。

TOPIC-2

日本の大学を目指して独学で受験勉強の日々

アメリカでの高校生活はいかがでしたか。

坂本 アメリカの高校生は、日本と比べると大人びていました。日本では可愛いことがもてはやされていましたが、アメリカでは大人っぽさに価値がありました。女子の多くはばっちり化粧していましたし、一昔前に流行った「ビバリーヒルズ高校白書」のような世界でした。ただ、価値観が日本と多少違うことを除けば、いろいろな人がいるという点では日本と変わりません。みんながパーティー好きなわけではないし、シャイな人もいます。スポーツの花形選手もいれば、読書好きのもの静かな人もいて、人種も家族構成も実に様々でした。

将来についてはどう考えていたのですか。

坂本 将来の目標が明確にあったわけではなく、とりあえず日本の大学に進学して、日本で生活したいと思っていました。常に自己主張が求められるアメリカの社会に、少し疲れていたというのも一因でした。もっとも日本人がほとんど住んでいない地域でしたし、当時はインターネットもありませんから、手に入る日本の情報は限られています。ですから、できる範囲で受験勉強をして、それで合格できる大学に行ければいいと思っていました。

どうして聖路加国際大学を受験したのですか。

坂本 日本の高校生のようにしっかり受験勉強をしたわけではありませんから、選択肢は限られるけれど、お金は稼げるようにならなくてはいけないとは思っていました。看護師なら就職に困らないのではないかと思い、看護学部を志望することにしました。しかし、どの大学がいいのかまるで情報がありません。日野原先生のことを知っていた母から聖路加がよさそうだと聞いて、単願で受験しました。落ちたらアメリカの大学に進めばいいという軽いノリでした(笑)。

TOPIC-3

臨床現場が合わず1年で病院を退職

大学時代にはどんなことに力を入れたのですか。

坂本 日本で一人暮らしをしながらの大学生活は楽しいものでしたが、とくに何かに打ち込んだという記憶はありません。当時の聖路加では、看護師の国家試験受験資格以外に、保健師と助産師の受験資格も取得できる制度でしたから、看護師と保健師の免許を両方取得すべく勉強していました。

卒業後は聖路加国際病院に勤務しますね。

坂本 このときも特に理由はなく聖路加国際病院に就職しました。病棟実習が楽しかったので、病棟勤務を希望しましたが、配属されたのは当時、公衆衛生看護部と呼ばれていた訪問看護や健診などを日替わりで行う部署でした。こうした経験や知識が豊富でないと務まらない部署に新人を配属することは今はおそらくないと思いますが、当時はなぜか3人も配属されました。

看護師の仕事はいかがでしたか。

坂本 訪問看護をした次の日は、腎臓病や糖尿病の食事指導、その翌日は新生児健診やワクチン外来、さらに次の日には新生児の家庭訪問というように、仕事内容が日替わりで変わる部署でした。それぞれの仕事の中身を深く理解できないまま表面的に仕事をこなすことに疲れてしまい、自分がやりたいこととも違ったので、1年で辞めることにしました。