プロ野球球団・横浜DeNAベイスターズの社長に38歳の若さで就任した木村洋太さん。同球団の本拠地・神奈川県横浜市で育った野球大好き少年だったといいます。東大で宇宙工学を専攻し、外資系コンサルを経て球団社長になるという異例の経歴の持ち主でもあります。中高時代を振り返っていだき、新中1生へのアドバイスもいただきました。

TOPIC-1

猛勉強して筑駒へ好き勝手できた6年間

どのようなきっかけで中学受験をされたのですか。

木村 3歳上の兄が中学受験をしており、朝日小学生新聞を講読していました。小学3~4年の頃に、当時連載中の「落第忍者乱太郎」の原作者である尼子騒兵衛先生に会える「乱太郎キャンプ」に参加し、そこで出会った人たちといると楽しいと感じたことや、兄の姿から、おぼろげながらも受験するのだろうという感覚はありました。それで小学5年から塾に通い始めました。

ご自分から通いたいと思われたのですか。

木村 兄のときは親主導で塾通いをしていたため、親も大変だと思ったのでしょう。僕に対しては「好きにしていい」と言われました。自分で決めたことなのだから、私立でも公立でもどっちに進むにしろ、自分で決めなさいというスタンスだったと思います。

塾通いは辛くなかったのですか。

木村 塾に入ってから成績がどんどん上がっていくのが楽しくて、勉強ばかりしていました。その塾のなかでは常にトップでいたいと、たぶん人生で一番勉強していた時期だと思います。成績が伸びるのにしたがって、いわゆる御三家とか筑駒を自然と目指すようになっていました。

筑駒の印象はいかがでしたか。

木村 男子校ですから、さわやかレベルは相当低く(笑)、むさ苦しい雰囲気ですが、逆に人の目を気にすることなく、伸び伸びと過ごすことができました。小学生の頃はトップを走り続けることに意欲を燃やしていましたが、中学に入って井の中の蛙であることを実感しました。スポーツ万能で部活ばかりやっているのに成績はずっとトップにいるような人たちがいたことで、「もう競争するのはいいかな」と、肩の荷が下りたような気持ちになりました。

力を入れた活動はありましたか。

木村 数学科学研究会に所属して、まだ解明されていない定理を解いたりしていました。高1・2のときは数学オリンピックに出場しましたが、国内の本戦で破れ、世界大会に出場することはできませんでした。

TOPIC-2

球場の興奮を味わい熱心な野球ファンに

野球との出会いはいつ頃でしたか。

木村 親の影響で、小学生の後半からはかなり真剣に野球中継を見ていました。父親に連れられて初めて球場に足を運んだのは、応援していた球団がサヨナラ負けをした試合でした。日本独特の応援スタイルのせいもあり激しい感情の起伏を体験し、日常ではあまり味わえない興奮の虜になりました。それ以来、熱烈なプロ野球ファンになり、小学生時代は年に3~4回、中高時代は10回程観戦していましたし、高校のときは野球好きが講じて、夏休みに1人で甲子園球場に行き、2週間くらい泊まり掛けで観戦していたほどです。

ご自分でも野球をするのですか。

木村 中学から野球部に所属していました。ただ、プレー自体はそれほど上手い方ではなく、レギュラーになったことはありません。高1のとき、練習中にボールが鼻に当たって鼻骨を折る怪我をしたことで硬式ボールが恐くなり、野球部を辞めてしまいました。ただ、野球そのものは好きですから、大学入学後も、軟式野球のサークルに入って、ポールと戯れる程度には楽しんでいました。

TOPIC-3

パイロットへの憧れから東大の航空宇宙工学科へ

進路についてはどのように考えていたのですか。

木村 理系科目が得意で理系に進むことは早くから決めていました。理系で成績のいい人は医学部を目指す傾向があったため、一時期は医学部進学も考えていました。しかし、高3になって、自分が本当にやりたいことを突き詰めて考えたところ、医者ではないことに気づきました。小さな頃からパイロットになりたかったことを思い出したのですが、体格や運動神経などから無理だろうと判断し、飛行機やスペースシャトル、ロケットなどの業界につながる工学系に進もうと考え、東大の航空宇宙工学科を目指すことにしました。

大学時代に力を入れた活動はありますか。

木村 東大では3年次から学科を選ぶ進学振り分け制度があるため、理科一類に合格してからも、希望通りの学科に入れるだけの勉強はしていました。もっとも、大学1~2年の頃は、高校時代に覚えた麻雀に明け暮れたり、週に1~2回家庭教師のアルバイトをしたりと、それなりに学生生活を謳歌していました。

念願の航空宇宙工学科に進みます。

木村 9割の学生がそのまま大学院に進むような学科でしたから、あまり深く考えずに大学院に進みましたが、実は4年生の終わり頃から、自分が研究に向いていないことに薄々気づき始めていました。そのため、正直にいえば、航空宇宙工学科に入ってから修士を終えるまでの4年間で、もっとも力を入れていたのは塾の講師でした(笑)。