人というのは「表」と「裏」があって、
それを、正直に見せる人と見せない人がいる。
「表」と「裏」は、内面的なことだけでなく、
緊張状態の「表」;ONとも言えるし、「裏」はその逆で
まったくの無緊張状態;OFFとも言えるのかな。
内面的なことで言えば、私はあんまり自分の「裏」の部分は人には見せない。
すごく葛藤があっても、くやくしくても、悲しくても
これは生まれ持った性格ではあるのだが、
「見せたくない」のではなく、人に気を遣わせるのがいやなので
これらを表面には出さない。
仕事場はともかく、親に対してもいまだにそう....。
でも、そんなの人間らしくなく、正直じゃないって感じだ。
『そうか?自分、無理してるか?』
っていうと、これがしていない。
じゃあ、私はどこでスイッチの切り替えをしているのかと言うと
≪自分の生活を充実させて、人生を楽しんでいる≫から大丈夫。
葛藤や、くやしさ、悲しさ諸々などを自然と消化させてしまう術が自分の中にあるのだ。
それが何かは、個人的なことなので、明記はしないけど、
ふと、受験時代の娘たちはどうだったのかな、と思った。
これが本題*^-^*
まっただ中の頃は、全然そんなことを思う余裕なんてなかったんだが、私のように段々子どもたちが自分の人生を歩み始めると、
ふと、こんな真面目くさったことも考えたりするようになるって感じ?(苦笑
小学生たちは一日が大人の感じる時間の流れよりも
たぶんゆっくりなのだとは思うけど、めまぐるしく過ぎゆく受験生活の中で、
スイッチの切り替えなんて意識してるはずもない。
そんな小学生がいたら、ちょっと怖いし(苦笑
自然体で、ありのまま、なのは確か。
で、この12月年末から1月の本番突入に向けて、
娘たちはどうしていたかしら、と思い出してみると、
わが娘たちは、うらやましいくらい、じぶんの感情に正直にあの時代あそこに居たなあ。
私のように、小賢しくいるのではなく、
全てを私にぶつけてきていたなあ。
「うれしい」
「かなしい」
「くやしい」
「たのしい」
私は親に出来なかった。
歳のうんと離れた妹たちがいて、なんだか考える間もなく
親離れしてしまっていた私は
自分の感情は「手のかからない長女」として出していなかった。
娘たちが私にこうやってぶつけてくれたってことは、
娘たちにも「裏」の部分も正直に見せて、
「はなしやすく」していたからかも。
(おっと、出ました、自画自賛。スミマセン)
子どもたちは、実に自由に
「表」「裏」;「ON」と「OFF」を切り替え、
のびのびやっている。
真面目に〆ると、親の「在り方」って、
ほんと大事だなあ。
言葉を添えれば、
決して、我が家は順風満帆だったわけもなく、
何度も塾のリュックをごみ箱に捨てたし、外にほおり投げたし、私もプチ家出してみたり、
それはそれは大変だった。
でも、どこかで、私が強烈に自分を出す性格ではなかったのが幸いした気もする。
そして、それは、「自分のOFFへの切りかえ方」をわかっていて、じぶんの時間を大事にもしていたってことにも、実は繋がっているわけだ。
わが家における自然の連鎖。
これからも。
カテゴリ名: 女子校ライフ