今朝は、朝8時前に長野県に住む友人からメールをもらった。
東京の大学に出していた息子さんが、地元の信用金庫に就職が内定したそうだ。
この前大学に入学したばかりだと思っていた私はびっくり。よその子どもって、大きくなるの早くない?
おめでとう、とメールを返しながら、家業の材木問屋は継がないんだな、とちょっと思った。
お母さん(友人)は三姉妹の長女として先代とともに実家の商売の材木問屋を盛り立てて頑張っていたのだけれど、この景気で、木造で家を新築するような話は激減し、昔と違ってなかなか大変、なんて言っていたっけ。
自分のまわり、どんなお商売の方も全員景気が悪い。少し前まで、(まわりでは)教育産業と矯正歯科だけはよかったようだが、それももう苦しいようだ。
何をするにも八方ふさがりみたいな状況にあって、今度与謝野某が作った新党の名前が「立ち上がれ日本」だって~!ふざけるなと言いたい。
立ち上がるにしてもあの人たちの手は借りないよ、と思う。
100年に一度の大不況にあって、全てがチャラになりみんなが平等になったのなら、また一からやるだけのこと。
開業した当初、そこに誰かがなにか事業を始めたことなんか誰一人として知らなかったわけで、毎日毎日鳴らない電話を見つめてはため息をついていた。
お客様をおまたせする間に流れるであろう保留音にまでこだわって買った、留守録を外から聞くことが出来る機能のついた当時とても高かった電話は宝の持ち腐れだった。
ヒマだからお客様はお待たせしないし、2本同時に電話が鳴ることはまず絶対にないし、留守電は聞くだけ虚しい沈黙を守っていたから。
営業して回っても門前払いのオンパレード。(その反動で今でも人を門前払いすることがあまり出来ない。)
若くて一人前扱いすらされず、机の下で拳を握りしめて我慢するようなことを言われたこともあった。
留守番の時は、あまりに暇すぎて内職をしていた。不動産屋のDMの宛名書きである。内職のない時は、一日遅れで露天で売られている怪しい出元の100円の週刊誌を買っては読んでいたなあ。
あれが87年か。ずいぶん年をとったが、この不況を乗り切るには、またあんな感じにコツコツやるしかないのだろうな。
とにかく手と足と頭を動かして何かやっていれば、ひとりふたりと認めてくれる人が現れる。そしてその人がまた別のひとりを呼んできてくれる。ちゃんとやってさえいれば見ていてくれる人は必ずいるものだ。
もうだめかと思ったときに鳴る電話は救世主。そうやって広がった人脈は宝物になる。
さあ、行くよ。うちはここにいるよ~!
カテゴリ名: 自営業者のひとりごと
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