産婦人科専門医として日々の診療を行いながら、スポーツドクターとして女性アスリートの支援やヨガ指導者の育成に携わり、さらには働く女性の健康を守る産業医としても活躍している高尾美穂さん。こうした多彩な役割を担うに至った道のりを振り返っていただくと同時に、中高時代に心がけておきたいことなどをお聞きしました。

TOPIC-1

信頼される人になりたい その思いがすべての原点

どのような子ども時代を過ごしたのですか。

高尾 勉強も運動も得意な活発な子どもでした。小学生の頃は夏休みになると毎年、7歳上の兄はボーイスカウトへ、私はYMCAのキャンプに参加していました。例年、1週間程度のキャンプなのですが、小学4年生のときは、どういうわけか親からロングキャンプへの参加を勧められました。小・中学生の子どもたちが集まって、ロッジに泊まったり、テントを張ったりして移動しながら夏休みの全期間を使って行う大規模な野外活動です。

夏休みいっぱい親元を離れて生活するわけですね。

高尾 こうした活動にあまり好き嫌いを言うタイプではなかったので、素直に「行く、行く」と答え、いつも通り親の見送りで出発し、親の出迎えで自宅に戻ってきました。しかし、実はこの間に母親が乳がんの手術をしており、帰宅してから私だけ知らされていなかったことがわかりました。

心配をかけないための配慮だったのですね。

高尾 今、振り返れば、思いやりからだったとは理解できますが、当時の私は、自分だけが信頼されておらず、子ども扱いされたのだと感じました。同時に、自分自身がもっとしっかりして、大事なことをきちんと話してもらえるような信頼される人になりたいと強く思いました。この思いが現在まで続く、私の原点ともいえるようなものになっています。

TOPIC-2

いじめをやり過ごし勉学に集中

中高時代はどんなことに力を入れていましたか。

高尾 中学受験のない国立の小中一貫校に通っていました。勉強はよくできるほうで、学習塾にも通っていたため、どんどん先に進んでいました。たぶん小学6年生で中学3年くらいの内容が終わっていたと思います。大手塾の全国模試ではほぼ毎回1位、通知表はオール5が当たり前でした。

運動も得意とのことですね。

高尾 兄とのキャッチボールの影響で、小・中学校はソフトボール部に所属し、その後、高校でバレーボール部、大学で公式テニス部に入りますから、球技はほとんど何でもできました。身体能力も高かったのだと思います。

充実した中学校生活だったのですね。

高尾 ところが、中学では、中学受験で入ってきた人たちと一緒になります。県内の進学校に進むには、非常に高い内申点が必要であり、そういうルートを目指している人たちにとって、私はあまりおもしろくない存在だったのでしょう、3年生のとき嫌がらせにあいました。登校すると私の机の上に花瓶が置かれていたり、スリッパに画びょうが打ってあったりしました。当時はいじめという言葉はありませんでしたが、あとから考えると物理的ないじめだったと思います。

どのように対処したのですか。

高尾 部活もしていたので、クラスでそういう嫌がらせはあったにせよ、人間関係ではそんなに困っていませんでした。それに私とは同じ高校に行くことはないと思っていましたから、中学時代さえやり過ごせばいいと、余計に勉強に力を入れるようになりました(笑)。

TOPIC-3

大学で学んだことを活かせる職業に憧れた

大学進学についてはどのように考えていたのですか。

高尾 母が茶道の先生で、茶室がいくつもあり、親以外の大人たちが大勢出入りする家庭環境でした。そういう大人たちとの関わりが私の人格形成に影響したと思います。高校のときには東大文系に行けば就職には有利だということはわかっていましたが、そこには価値を見出せませんでした。父が橋梁専門の建築士で、海外の技術を学んだりしている姿を見て育ったため、大学に行くなら、仕事につながることをしたいと強く思っていました。

それで医師を目指されたわけですか。

高尾 医者に強い憧れがあったわけではありません。本はよく読むほうで、チェーホフが好きだったので、文系に行くならロシア文学を学びたいと思っていました。ただ、母方の伯父が医者で、茶室にもよく出入りしており、家にもシュバイツァーの本など医学で人の助けになるような本がたくさんあったこともあって、理系なら医学部に進もうと思っていました。

大学進学についてはどのように考えていましたか。

高尾 実はおもしろいエピソードがあります。高校3年で理系と文系に分かれるのですが、その前の面談で、先生が「文系なら東大に行けるからどうか」と言うのです。「私は理系にしたのですが」と反論すると、「医者は大変だから文系のほうがいいのではないかとお母さんから伺っている」と返ってきました。兄が外科医でその生活ぶりを知っていたからこそ、心配してくれていたことがわかりました。

 

TOPIC-4

想定していなかった産婦人科を目指す

希望通り、医師になりました。

高尾 医科大学を卒業すると、当時は2年間のインターンがありました。愛知県ではスーパーローテートといって、内科や外科、小児科、麻酔科などのメジャーの診療科を含めていろいろな診療科を順番に回ることになります。医師になった当初は、専門のスキルを身につけ、そのスキルでスカッと診断がついて、治療につながる診療科がいいと思い、内視鏡科に進むつもりでした。ところが、内視鏡科に配属されてみて、患者さんと触れ合う瞬間はほんの一瞬だということに気がついたのです。

それで産婦人科へ?

高尾 実は、産婦人科はまったく考えていませんでした。ところが実際に配属されてみると、赤ちゃんから高齢者まで非常に幅広い年齢層の患者さんを診ることができ、しかもライフステージのいろいろなポイントで関わることができる診療科であることがわかりました。しかも、当時、女性の産婦人科医は2割程度しかいなかったため、産婦人科なら女性医師としてもニーズがあり、同じ女性として女性の健康に貢献できるのではないかと、産婦人科医になることにしました。

適性みたいなものをお感じになったことはありますか。

高尾 産婦人科に配属されたとき、担当指導医から「向いているね」と言われたことがあります。その前に心療内科に配属されたときにも感じたのですが、人の話を聞くことが好きで、自分は患者さんと良い関係を築くことが得意なのではないかと思ったことがあります。外来で更年期の患者さんたちを受け持ったとき、彼女たちの混乱した話を聞くのが嫌ではなく、それを一つひとつ解きほぐして整理してあげることが好きなのだと気づいたとき、最終的に産婦人科医としてやっていけると確信を持ちました。