作曲・作詩・編曲・プロデュースと多彩な音楽活動を展開する一方で、タレントとしても各種テレビ番組で活躍しているヒャダインさん。ニューヨーク旅行中に同時多発テロに遭遇したことで、生き方が定まったといいます。ご自身の学校時代の生活やこれまでの活動を振り返っていただき、中高時代をどう過ごしていけばいいのかについても伺いました。

TOPIC-1

勉強が趣味だったため自然に中学受験の道へ

どのような小学生でしたか。

ヒャダイン 運動神経がまったくなくて、男の子たちの遊びにはなかなか交われなかったのですが、3歳からピアノを習っていたので、ピアノが弾けて勉強ができるということが自分のアイデンティティみたいに感じていました。当時はピアノが弾ける男子はめずらしかったこともあり、一応クラスの人気者みたいな感じにはなっていました。

中学受験をされています。

ヒャダイン 勉強が趣味のような感覚だったため、母親にドリルを買ってもらうようになり、その延長で小学4年から塾に通い始めました。そのため、自分の学力に合った中学に行きたいという思いが強くなり、親にお願いして受験させてもらいました。ただ、正直に言うと、僕にとっては人生の挫折経験の一つです。第一志望だけでなく合格できると思っていた併願校まで落ちてしまい、日程的に一番遅かった中学校を受験し、合格したからです。

合格後のお気持ちはいかがでしたか。

ヒャダイン 最初は少し不満もありましたが、入学後は、中学1年生という新しい環境に慣れたり、新しい習慣を受け入れたりすることに必死で、もう受験のことを気にすることはなくなりました。

どんな中高時代でしたか。

ヒャダイン 受験特化型の学校だったため、文化活動はあまり盛んではありませんでした。吹奏楽部に入りましたが、部員は3人(笑)。週1でピアノのレッスンには通っていましたから、部員が集まらない日は、音楽室で1人グランドピアノを弾いていました。一方で、学習面に関してはとても良い環境だったため、中高時代は一番勉強を頑張った6年間だったと思います。ある意味、音楽と勉強の日々という感じでした。

TOPIC-2

よく考えずに大学や学部を選択

京都大学総合人間学部に進学します。

ヒャダイン 悪い見本として聞いてほしいのですが、当時は大学でやりたいこともなければ、目標もありませんでした。そこで学ぶ内容があまり明確ではないフワッとした学部にしようと思って総合人間学部を選択しました。京都大学を選んだのも、ブランド名と自分の学力レベルが見合っていたという理由でした。ですから、受験前に大学を見に行くこともありませんでした。そのため後々苦労することになります。

どのようなご苦労があったのでしょうか。

ヒャダイン 同級生の多くは、これを勉強したいからとか、こうなりたいからといった強い目的意識を持って入学していました。そういう人たちと自分との間に大きな壁を感じて苦しく思ったことは多々ありました。ある程度の偏差値はクリアできたので当初は何とか学業にはついていけましたが、3~4年次になって専門性が高まってくると、自分から主体的に学んでいく姿勢が求められるようになります。しかし、そういうモチベーションがなかったために及び腰になっていました。大学の4年間は一番吸収できる時期なのですから、僕のケースを反面教師にして、偏差値が低くてもネームバリューがなくても、学びたいことを学べるような場所を選ぶことを最優先にしてほしいと思います。

TOPIC-3

自分で稼ぐ喜びをアルバイトで知った

音楽活動は続けていたのでしょうか。

ヒャダイン ピアノのレッスンは、高校3年のときに受験を理由に辞めていました。それで大学入学後にアカペラサークルに入りました。ただ、作曲家になりたいと思っていたわけでもなく、とくに曲作りに力を入れたわけでもありません。いろいろな曲をカバーしたりする活動をしていましたが、誰かと一緒に音楽を作るといったような集団活動が苦しくなってきて、結局、1年半くらいで自然にフェードアウトしてしまいました。

その後の学生生活はどのようなものだったのですか。

ヒャダイン 大学2年からは実家近くのCDショップで音楽担当のアルバイトを始めました。自分が頑張ってPOP展開を考え、仕入れを工夫すると売り上げが変わることに驚き、音楽の知識をこういう形で生かすこともできるのだと初めて知りました。しかも、人生でほぼ初めて自分の労働に対する対価で金銭がもらえる評価のされ方があることに大きなやりがいを感じました。大学2年生の時はほぼ大学に行かず、ずっとCDショップでアルバイトをしていました。

卒業後の進路についてはどのように考えていたのでしょうか。

ヒャダイン 3年の6月くらいになって久しぶりに大学に顔を出したところ、大学1年のときの友だちが「エントリーシートはどこに出したの?」と。こっちは「えっ、エントリーシート? それ何?」って感じでした。自分が完全に乗り遅れてしまったことを知って絶望し、視野が狭くなり、「もう就職できない、フリーターになるしかない」と思い込んでしまいました(笑)。それなら学生時代にしかできないことをするしかないと、アルバイトで貯めたお金で、ニューヨークへ2週間、初めての一人旅をすることにしました。

TOPIC-4

同時多発テロに遭遇し作曲家になると決意

初の海外旅行はいかがでしたか。

ヒャダイン 毎日、昼も夜もブロードウェイミュージカルをたくさん観て、さまざまな場所を歩き、非常に楽しく充実した日々を過ごすことができました。ところが、帰国を翌日に控えた9月11日、あの同時多発テロが起こります。もちろん帰国はできません。お金を節約しなければなりませんから、川のほとりでベーグルをかじりながらボーッとしていました。

大変な時期にニューヨークにいらしたのですね。

ヒャダイン そのボーッとしていた時間に、たぶん初めて、これから人生をどういう風に生きていこうかと自問自答しました。ほぼ毎日通っていた場所ですから、もしかしたら自分が爆発に巻き込まれていたかもしれない、人生は本当に何があるかわからない、だったら本当に自分の好きなことで生きていきたいと考えるようになりました。ブロードウェーは2日後には再開しており、エンタメ業界の底力を肌で感じたこともあり、エンタメ業界にいたいという気持ちになりました。そして、自分に何ができるかを考えた結果、作曲家になろうという気持ちを固めて帰国することになります。

そこから作曲家になる活動を始めたのですね。

ヒャダイン 大学4年から週に1時間、作曲講座に通っては先生に自分の作った曲を聞いてもらっていましたが、あまり評価してはもらえませんでした。しかし、作曲家になろうという思いは強く、大学を卒業するとすぐに東京に出ました。築40年、家賃5万円のオンボロアパートに住み、作曲の仕事を探して応募するかたわら、フリーター生活に突入です。渋谷のCDショップで朝9時から夕方5時まで働き、夜は居酒屋や料理屋などでも働きました。作曲家志望なので最初は学歴を封印していましたが、生活費や作曲の時間を捻出するためには背に腹をかえられず、京大卒の肩書を活用して効率的で短時間ですむ家庭教師のアルバイトにも手を出しました。