宇宙論に魅せられた中高時代を経て、物理学の研究に進むも、幼少期からの夢であった科学ジャーナリストを目指し続けた横山広美さん。現在は、科学と社会との関係を問い続ける科学技術社会論の専門家として幅広い研究活動と社会発信を続けています。これまでの経歴を振り返っていただき、中高時代をどう過ごせばいいかなどについてお聞きしました。

TOPIC-1

宇宙論に魅せられ関連本を読む日々

小中時代はどのような子どもだったのですか。

横山 本好きな小学生で、週末になると図書館で本を5冊借り、翌週のうちに読み終えるという生活を繰り返していました。お話が好きだったので、将来は児童作家になれたらいいなといったような夢を持っていました。一方で、幼稚園から高校まで朝晩お祈りをするカトリック系の学校だったため、年齢とともに神様は本当にいるのだろうか、どうやってこの世界を作ったのだろうかなど、いろいろと不思議に思うことも増えてきました。でも、そのことをシスターに聞いてはいけないような気もしていました。今の時代ならすぐにググってしまうのでしょうが、当時はそんなものはありませんから、疑問だけがどんどん膨らんでいく状態でした。

その疑問が解決する日は来たのでしょうか。

横山 中学2年になるタイミングで、友だちのお母さまからニュートンという雑誌を読んでみたらと勧められました。なぜ、そのように仰ったかいまだにわからないのですが、ホルストのCDを貸してくださるなど、私を宇宙の分野へと推してくださったのです。ニュートンは父が読んでいて家にたくさんあったため、何気なく手に取って読んでみました。そのときの衝撃は今でも忘れられません。この世界、すなわち宇宙は無の状態からビッグバンによって生まれたとする初期宇宙論のような物理の話が書かれており、それまで生きてきたなかでこれ以上のびっくりはないというくらい、ものすごい衝撃を受けました。

長年の疑問が氷解したわけですね。

横山 児童作家になりたいと思ったくらい文章を書くのが好きだったこともあって、それ以後は、家にあったニュートンはもちろん、一般向けに発売されている宇宙論の本を片っ端から読み、部分的にノートにまとめていきました。誰に見せるつもりもなく、ただ自分の興味のおもむくままに書きためていたのです。中学2年の1年間で、たぶん70冊くらいは読破したと思います。宇宙論に関する特集番組も録画して、再生を止めては書き取るといったようなこともしていました。

TOPIC-2

科学ジャーナリストをめざし物理学科へ進学

宇宙論への興味はその後も続くのですか。

横山 高校生になっても宇宙論への興味は変わりませんでした。物理好きな友人も3人でき、高3のときに物理学者のホーキング博士と佐藤勝彦先生の講演を聞いたり、そこで知り合った東大の物理学系の学生に後日研究室を案内していただいたりしました。ハーバード大学の天文学者マーガレット・ゲラー博士や、3k背景放射を測定したジョージ・スムート博士などの連続講演を聞きに行く機会にも恵まれて、ワクワクドキドキがずっと続いていた中高時代でした。

そうなると進路は物理学者か天文学者ですか。

横山 普通はそう考えるのでしょう。しかし私は少し違っていました。一つは書くことが好きだったから、もう一つは科学と社会の複雑な関係に気づき始めていたからです。宗教の時間に「世界には飢餓の人たちがあふれているのに、宇宙開発をする必要があるのか」といったようなテーマで議論することもあり、宇宙論を含む科学の世界を、その魅力だけでなく、批判的な視点からも社会に伝えていけるような科学ジャーナリストになりたいと思うようになっていました。科学と社会の関係を深く考えたいという気持ちは、後に科学技術社会論の研究者になるのにも通じています。

物理学者ではなく、ジャーナリストが目標だったのですね。

横山 はい。そのため、大学で科学ジャーナリストになるための勉強ができるような学部を探したのですが、ストレートに科学ジャーナリストになれるような学部は見つかりません。それなら最初に惹かれた宇宙論の基礎となっている物理を学ぼうと考えました。ですからジャーナリストになりたいと思いながら物理学科に進学したのです。

東京理科大学を選んだのはどうしてですか。

横山 当時は受験科目が多いと大変になると思っていたため、最初から私学を受験するつもりでした。東京理科大学は東京物理学校が前身で、物理に定評があり、しかも関門科目と呼ばれる科目があって厳しく、しっかり教えてもらえるということを知り、ここで学ぼうと思いました。

TOPIC-3

大学院で経験した国際的な実験グループ

大学時代にはどんな研究に力を入れたのですか。

横山 東京理科大には、東京・神楽坂キャンパスの理学部第一部と、千葉県・野田キャンパスの理工学部にそれぞれ物理学科があるのですが、私は理工学部の物理学科に進学しました。結果的にここで良かったと思えるのは、原子核物理の研究をなさっている教授の研究室に所属できたからです。先生は前任が高エネルギー加速器研究機構の教授であり、そこでの研究プロジェクトに入りやすい環境でした。当時は、宇宙のことを解明できる素粒子としてニュートリノがホットトピックスになっていましたから、大学院のときにニュートリノを研究する国際実験グループの一員に加えてもらうことができました。

小柴先生や梶田先生がノーベル賞を受賞した研究チームですよね。

横山 ニュートリノの研究チームは、世界中から優秀な物理学者が集まり10カ国150人で1つの結果を出す実験グループでした。つくばにある高エネルギー加速器研究機構で人工的にニュートリノを作ってスーパーカミオカンデに飛ばし、変化することで質量があるかを見る実験です。高エネ研に泊まり込んで5年半の大学院生活を送りましたが、世界最先端の研究に従事しているという、憧れの世界の中心にいるような感覚でいました。

まさに物理学のフロントランナー的な研究だったわけですね。

横山 ただ、実際の研究現場は非常にハードで、指導くださった皆さんは素晴らしい人たちでしたが、続けられるか悩みました。そうした際に、アメリカから戻ったばかりの当時の中堅のリーダーが、応援してくださったことが励みになりました。ユニークな志を持っている学生を、排除するのではなく、育てることを重視してくださいました。こうした経験を経て、もともとおとなしい性格だったのが、かなりタフになりました。あとは1つの目標のために一緒に議論する仲間が世界中にできたのがうれしかったですね。アメリカ、韓国、ロシア、中国、ポーランドやオーストラリアなどに友人ができ、一部の仲の良い研究者とはいまも交流があります。こうした国際的な研究チームの中で研究できたのは、非常に得難い経験だったと思っています。

就職は考えたのですか。

横山 科学ジャーナリスト志望だったため、大学院時代には「子どもの科学」という雑誌での執筆も経験し、修士課程修了と同時に一旦は就職を考えました。実際、3つの出版社から内定をいただいていました。しかし出版社の方に、編集者になるより直接、書き手になることを目指したら、と言っていただいたことと、指導教員から「物理をもう少し深く研究してから、その後にジャーナリストになったらいいのではないですか」とアドバイスされました。