小林繁さんが亡くなってしまった。
もと読売でもと阪神で今は日ハムの投手コーチ。57歳とは若すぎる。
阪神ファンは忘れもしない江川卓投手との空白の一日事件。
栃木の作新学院の投手江川は、高卒の時に阪急にドラフト指名される。
しかし、読売に行きたかった江川はこれを拒否して法政大学に進学。そして卒業時に、今の西武の前身、クラウンライターライオンズに再びドラフト指名される。
しかし江川はこれも拒否してアメリカに遊学。
ドラフトの交渉権は翌年のドラフト会議の前々日までと決まっている。(これはスカウトが直前まで地方で交渉していて、ドラフト会議に間に合わないかもしれないから、という理由らしい。)つまり、翌年のドラフト会議の前日は、どことも交渉していない(交渉権がない)というのが読売の理屈。
そして読売はその日に江川の入団を発表。しかし、ドラフト当日、普通に阪神が指名。78年の11月22日の話である。(ちなみに翌23日深夜、田渕の西武へのトレードが通告されている。)
世間は読売の主張とやり方に反発。読売は独自のリーグを作ろうとしてまで路線を貫こうとしたが、結局、翌年1月31日、阪神は江川卓と契約、同時に小林とトレードへ。翌2月1日0:00に小林が合意。これが有名な空白の一日事件である。
当時高校生だった私はこの事件で読売ファンで隣の席だったNくんと大喧嘩した思い出がある。高1の時だ。喧嘩の話を学級日誌に書いた覚えがある。
江川の「興奮しないでください!」という記者会見にも腹がたっていたがNくんのそれでも読売ファンを止めない神経が私にはわからなかった。
昔はちょっとは王貞治のホームランに酔いしれたりして読売ファンだった私が決定的にアンチ巨人になった事件である。(私は高2の時にこのNくんにバレンタインのチョコをあげたが、彼はその時もまだ読売ファンだった。名前を書かないで机に押し込んできたので今でもチョコの出所はわからないはずである。憶えてないだろうな。)
この、小林繁投手のサイドスローで投げるモノマネで東京に進出してきた関西の芸人がいた。ヤングオーオーという番組だっただろうか?明石家さんまなるその変な名前の芸人がその後お笑いで天下をとるとは知る由もなかった。
うちにある阪神の歴史を書いた本によると、4月10日、阪神小林は対読売戦初登板でで勝利を上げる。そして6月2日、阪神は初登板のルーキー江川卓に3本の本塁打をあびせるのである。
この79年、早稲田大学の岡田彰布がドラフト1位指名で翌年阪神に入団する。
80年冬、私の短大時代の友人ヒロリンは、早稲田大学猛虎会の会合に阪神の輝くルーキー、岡田がやってくると聞き、必死になってマフラーを編んでいた。
いよいよその日、雪の降る早稲田の正門前で彼女は転び、プレゼントのマフラーが濡れてぐちゃぐちゃになってしまい、あげることはできなかった。(ちなみに彼女はそのマフラーを洗濯して、ジャニーズ事務所の当時筆頭格だった田原俊彦あてに送っている。)
みんな昔の話である。
黄桜という日本酒のCMで、小林と江川は共演している。この時の「しんどかったやろ」というのはアドリブだそうである。
勝手なやり方で入団して小早川に打たれて鍼打って勝手にやめた江川(私の中では)と不幸だがイメージは良かった小林は和解した。
これもまた昔の話。
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