朝日小学生新聞特別増刊号 WILLナビNext

ロールモデルを見つけておこう

目標としている友人たちに追い付こうとがんばった

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──先生は、どのような中学生だったのですか。

松本 自分の中ではあまり自信を持った中学生ではありませんでした。とくに中学低学年の頃は、仲間に迎合していなければならないような感覚があり、みんながそうだといえば、そうだと言わなければならないと思うようなところがあった気がします。

──勉強面はいかがでしたか。

松本 幼稚園から高校まで、ずっと金沢大学の附属学校だったため、中学校までは受験なしに上がれましたが、附属高校に進学するには、受験を経なければなりません。ただ、中学3年間の成績が重視されるため、中学校時代も勉強だけはしっかりやっていました。石にかじりついても附属高校に進まなければならないと思っていました。

──部活動では何をされていましたか。

松本 バスケット部に所属していました。本当は、野球が好きだったので、野球部に入ろうと思っていたのですが、小学校時代に仲の良かった友人2人がバスケット部に入部したので、僕も付いていったのです。部活動は、受験を乗り切るための体力づくりのためだという認識があり、種目にはあまりこだわっていなかったのかも知れません。
 実は、その2人の友人が、自分よりも成績が良く、そうなりたいと思えるような身近なロールモデル的な存在でした。だから、彼らに付いていったというのが本当のところです。その2人に負けないようにしようという思いが、勉強への強いモチベーションにもなっていました。考えてみれば、そのときから今日まで、自分には常に身近なロールモデルがいました。現在でも、そうなりたいと思えるような医師が何人かいます。そういう存在が自分を高めてくれる原動力になってくれているのだと思います。

2番目の選択肢が医学部進学だった

──附属高校進学後は、どんな高校生活を送られたのですか。

松本 心の中ではなんとなく人の顔色を伺いながら日々を送っていました。ここ10年くらいで、「人は人、俺は俺」という感覚を持てるようになりましたが、高校時代は、自分のやっていることや思っていることが正しいのかどうか、まったく分からず、手さぐり状態で生きていた気がします。
 一方で、目標は明確でした。当時の附属高校は、全国各地の進学校がみなそうであったように、東大に何人合格させるかが価値基準になっており、「学是」といっても過言ではない雰囲気がありました(笑)。ですから、中学校時代の目標が附属高校進学だったように、高校では東大合格を目標にしていました。

──成績はいかがでしたか。

松本 そんなに良い方ではありませんでした。しかし、高校は高校で、また勉強のできる人を見つけ、その人に負けまいと懸命に勉強しました。もっとも、東大に行くことだけが目標だったため、その先のことは何も考えていませんでした。文理分けのときも、進学する学部を想定したわけではなく、単純に好きな数学をもう少し勉強したいとの思いで理系を選びました。

──なぜ医学部を選んだのですか。

松本 あまり自慢できる話ではありませんが、物理がまったく理解できず東大を諦めたため、次の選択肢として医学部を選択したのです。当時の附属高校には、東大の次は医学部、地方国公立大や早慶…と続くぼんやりとした順序みたいなものがあり、それに流された面もあります。
 医学部選択には実は別に強い動機もあるのですが、これまで誰にも話したことはありませんし、一生黙っています(笑)。金沢大学医学部を選んだのは、苦手な物理が受験科目に無かった数少ない大学の1つだったからですが、決して偏差値だけで医学部を選んだわけではありません。ただ、心のどこかで、医師になれなければ、それでもいいとは考えていました。

折り合いのつけ方を学んだ中高時代

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──中高時代は、どのようなことを学ぶ時期だとお考えですか。

松本 自分自身を例にとれば、「物事は思い通りにならない」ということを学んだ時期といえます。勉強に関しては、とくに悩むことはありません。やればやっただけ成績は上がりますし、入試問題は、正しければ〇、間違っていれば×とはっきりしているからです。しかし、人間関係はそうはいきません。とくに中学生になると、生活が一変します。部活動が始まって先輩後輩の関係ができますし、異性への興味も出てきます。人間関係には正解はありませんから、何とか折り合いをつける必要があります。この人間関係における折り合いのつけ方を学ぶことが、とくに中学校時代では大切になってくると思います。
 高校生になれば、ある程度折り合いをつけられるようなりますが、それでも文化祭など大勢が一緒に行動しなければならないようなときには、様々な衝突が起こります。そして責任感が強ければ強いほど、それが強いストレスになります。大人になれば、毎日がそうした衝突の連続です。中高時代に自分なりの解決策を見つける訓練をすることが大切だと思います。

付加価値を備えた外科医を目指して

──最初から、外傷外科を専門にされた救急医を目指したのですか。

松本 いいえ。ただ、早い時期から外科医は志望していました。自分の手を動かして何かしないと面白くないと感じる性格ですから、内科医や眼科医の自分がイメージできませんでした。大学卒業後は、消化器外科を選びました。金沢大学医学部にはもう1つ、心臓外科を中心にした外科もありましたが、非常に優秀な先輩たちが所属していたため、そこに自分が入っていっても、メインで執刀する医師としてやっていくのは難しいと思ったからです。

──どのような経緯でフライトドクターになったのですか。

松本 消化器外科医として8年間修行し、胃がんを専門として多くの手術もこなしてきました。ただ、今後のキャリアを考えると、普通の外科医では生き残るのは大変だろうと思い、自分に付加価値をつけたいと考えました。
 そこで、救急医療に関する知識や技術を身につけるため、日本医科大学に1年間勉強に行くことにしました。ところが、そこでは驚きの連続でした。世界には外傷外科と呼ばれる医療が存在しており、がんの外科とはまったく異なる治療法があったのです。この外傷外科に強く興味を惹かれたため、金沢大に戻ってからは、消化器外科を離れ、救急医療に転じました。
 しかし、当時は救急医療における外傷外科の重要性をなかなか理解してもらえなかったため、金沢大学を辞め、日本医科大学の救命救急センターに異動しました。ちょうどドクターヘリを導入する計画があったため、外傷外科の確立と、ヘリコプターを使った救急医療の充実に共に役立つだろうと信じ、ドクターヘリの運用と事業化に相当な力を注いできました。

──今後の抱負をお聞かせください。

松本 現在は救命救急センター長として、救急医療を統括する立場にあるので、ドクターヘリのオペレーションは若い人に任せてありますから、自分がヘリコプターに乗務することはありません。代わって今の立場で求められるようになったのは、病院経営と、医学生への教育です。単科の私立医科大学の場合は、病院経営は大学経営を大きく左右します。そこで経営管理学を学び始めました。また、医学部の教授職としても、学生への医学教育をさらに実践的なものにするための努力を続けたいと考えています。

遊んでもいい。勉強はしなさい。

──新中学生になる人に、何かアドバイスをお願いします。

松本 「勉強しなさい」。これしかありません(笑)。ほかに何がありますか。「遊ぶな」とか「テレビを見るな」とはいいません。遊んでもテレビを見てもいいから、とにかく勉強することです。
 また、中学時代は幅広い人間関係が形成されるときですから、「いかに折り合いをつけるか」を学ぶことも大切です。試行錯誤しながら、それぞれに上手な人間関係の作り方を身につけていってください。

──最後に、保護者へのメッセージもお願いします。

松本 一言、「勉強させなさい」です(笑)。誰が何と言おうと、中高時代は勉強する時期であることは間違いありません。子どもの性格などによって接し方を変える必要はありますが、勉強とそれ以外の時間との切り換えを上手く誘導しながら、将来のためにしっかり勉強させるようにしていただければと思っています。

【プロフィール】

松本尚さん(まつもと・ひさし)

1962年、石川県生まれ。金沢大学医学部卒業。同附属病院救急部・集中治療部講師などを経て、2000年日本医科大学千葉北総病院救命救急センター勤務。2001年よりフライトドクター。
2014年日本医科大学救急医学教授。専門は外傷外科、救急医学。

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